気がつけば全く原型を留めていない

10 22, 2018
見直せば見直すほどに修正すべき点が見つかり、気がつけば全く原型を留めていない状態になってしまうことがある。内容を作り上げることと、それを人に伝えることの違いを思う。そして、伝えることを明確にすればするほど表層はシンプルになる、しかし逆に深層へのイメージが膨らみ、内容自体が深掘りされていることにも気づく。分かってもらうための配慮が隅々まで行き渡っているかどうかを突き詰めることで、逆に内容自体に磨きがかかるのだろう。「理解は快感を伴う」らしい。ただ思うことは、理解された内容とは別に、制作者が理解してもらうために考えたであろう工夫の方が、快感を誘うのかもしれないということだ。
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自分の濃度に戻っていく

10 08, 2018
国際展示場にあるビッグサイトで撮影をする必要があり、数日通ったのだが、あの巨大空間の中で人波に揉まれ続けながら、大量の情報を摂取していると、ある時点から自分がよくわからない状態になり、感じる力が極端に衰えてしまう。更に妙な不安感に襲われ始め、加速度を増して自分自身が稀薄になっていく。ビッグサイト酔いと名付けている。今回もやはりビッグサイト酔いになった。正直、あまり行きたいと思わない場所のひとつと言ってもいい。ただあそこから帰る際、東京駅行きのバスがあるのだが、それだけは良いのだった。大変時間がかかるため、とてもお勧めできるものではないが、ある意味、今の東京を眺める事はできる。茫漠としながら、バスに長時間揺られていると、希薄だった自分が、徐々に自分の濃度に戻っていく。ぼんやりする時間の貴重さを思う。
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自我の膜を曖昧にする

09 25, 2018
簡易的に自我を解放するには銭湯がいいと思う。裸になって湯に浸かっていると、自分がその他大勢の中に混じり、己が湯に溶け出していくような気がする。自分を周りから固めている様々な物、服であったり対人距離であったり部屋であったりを取り去り、裸のまま湯という共有空間に自分を融合させてしまうのだ。実際、揺蕩う湯を通して自分の身体も複雑に屈折しているため、外見の輪郭も定まらなくなる。「気持ちがいい」とは自我で固められた自分を忘れることであるように思う。人間はとにかく徹底的に自分自身であり続けることを求められる。Aさんがある日Bさんになることは許されない。Aさんは基本的に死ぬまでAさんでなければならない。そういう自分を自分から解放すべく、旅行に行く人や登山する人等、様々な技があるわけだが、銭湯はその簡易さとして、最たるものではなかろうか。酒を呑むとか寝るという手法もあるが、通常の意識を保ったままで自我の膜を曖昧にするには、手足が完全に伸ばせる大浴場の湯に身を浸すのがいいと思う。Aという人物が、その時だけはA’ぐらいに緩くなれる。
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現状維持に対する不可能性の顕現

09 14, 2018
ほんの少しの誤動作が決定的なダメージに繋がる時、微妙なバランスの重要さを実感する。当然ながら完璧な安定などない。全ては常に全壊の可能性を孕んでいるし、全壊する時は容赦なく全壊するものだ。しかし、それが終わりなのかといえば、意外にそうではなかったりする。では何なのか。おそらく全壊とは現状維持に対する不可能性の顕現だろう。それ以上続けていても、そのバランスはいつか崩れるというひとつの予兆なのだ。壊れる時は壊れるべくして壊れる、そういうことだ。そして酷なことに、丁寧な日々を大切に積み上げていてもそれは起こる。であれば、全ては無意味なのかといえば、決してそうではない。そうなる可能性を予測しておくこと。時には自ら変化を加えること、そういう意識の保持がバランスの継続に繋がる。そして、たとえ全壊してしまっても、過度に動揺する必要などない。次に何ができるのかを、その場所から少しづつ考えていけばいい。未来はそのためにある。
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個人本心の吐露

09 09, 2018
一般的な常識や正論をかざす人の話しは基本的に面白くない。何故なら、そこには本心がないからだ。そういう一般論は実に上滑りしていく。ある程度の年齢になれば、正しいかどうかは聞く側が判断することであって、間違っても他者から押し付けられるものではない。しかし希に、正しいかどうかの判断を他者に委ねる人がいる。お手本に合わせる方が楽、世間の評価に従う方が楽、そう考える人のことだ。それが悪いとは言わない。ひとつの処世術だとは思う。しかし、僕が聞きたいのは、個人本心の吐露であって、世間の正論ではない。実は正しいかどうかも関係ない。逆に少々間違っていた方が、己で考え直すいい機会になるとすら思う。ファインダーから植物を見る時、少なくとも世間の正論みたいな見方だけは避けたい。写真は特に個人本心の吐露であるべきだと思う。sw2-143b.jpg
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誰にでも訪れる平等な偶然、もしくは幸運

08 31, 2018
何かをしていて、唐突に「美」とすれ違うと、一時的に気分がリセットされる。かなり疲れていても「美」の効果は機能する。あの「はっ」とする瞬間を体験する時、美しさの凄さを知る。「美」は、それまでの流れを見事に切断する力を持っている。ただ残念なことに、あまり長続きもしない。暫くすると「美」の効果は薄れてしまう。日常の分厚い流れが再び周囲を包み込んでしまう。結局「美」は、束の間の涼しい微風のような定まらない存在なのだろう。だからこそ、それを永続させるべく、様々な手法が試みられるわけだが、おそらくそれはどれも気休めでしかない。写真に収めたとしても同じことだ。「本物」は所有も記録もできない。逆に所有や記録されることで、その力は徐々に失われていく。であれば「美」は、誰にでも訪れる平等な偶然、もしくは幸運ぐらいに捉えた方がいいのかもしれない。
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原野に散らばる玉石混淆の山々

08 22, 2018

アイデアの枯渇を心配する必要はない。答えに繋がるきっかけは、必ずテーマそのものに隠れている。おそらくその考え方は正しい。実際ヒントは対象そのものを見直さない限り掴めない。「きっとこうだろう」と想定する何かは。大抵「いや、そうではなかった」となる可能性が高い。違いは凝視で見えてくる。その差異に気づけば、次の行動指針が決まる。そう考えると、まだ見えていない何かが山積みであることを思う。その山から有用な何かを見つけるためには、日々現場に立ち続けねばならない。誰かの作品を見るとか、誰かの話しを聞くとか、既に発見され整理整頓された対象を確認するのではなく、自分自身で原野に散らばる玉石混淆の山々から、自分だけに開示される世界の表情を探し出す行為を続けねばならない。それが現場に立つということだ。しかし、それが難しい。
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そんな人間に何が撮れるのか

08 15, 2018
壮大で凄い何かを普通に撮影することと、普通の何かを凄い視点で撮影することとの違いを思う。被写体が自ら強烈なパワーを放っている場合、おそらく撮影側ができる工夫はあまりない。成り行き上そうなるだろうが、素直にその魅力を記録することに専念した方がいい。そこに撮影側の個性は求められない。要は的確な技術があるかどうかだ。逆に、撮影側が己の意思を出したいとか、被写体の未発見な魅力を抽出するとかに専念したい場合、非日常で特異な被写体ではやりにくい。日常的に見慣れた対象の方が、その能力を発揮しやすく、結果としての差異も出やすいように思う。僕の生活スタイルでは、誰もが驚く緊迫感溢れる場面にはほとんど出くわさないし、住んでいる場所も東京の住宅街という徹底的に普通が目指されたエリアだ。仕事も守秘義務が大前提なので、何も公表することができない。そんな人間に何が撮れるのか、いつも自問することになる。
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没頭して凝視した後に漠然と眺める

08 08, 2018
継続は力になるのだろうか。後輩に教えてもらった、ヘーゲルの弁証法「量質転化」は「量の漸次的な動きが質の変化をもたらす」ということで、よくある解釈としては「考えてばかりで行動に移さなければ意味がない」的な説が多いらしい。しかし、薬が大量に摂取されることで毒にも変化するように、良かれと思う行為の積み重ねが、想定とは全く違う結果に繋がることもある。継続すればいいというわけではないのだ。しかし、継続していくしか道がない状況も多々ある。言ってしまえば、日常行為の多くがそんな境遇だろう。こういう時、逆にやめることの方が難しい。やめることができない状態への慰めとして、最初の言葉があるのかもしれない。であれば、逆に一気に投げ出すとか、思いを込めて放棄するという手法が、想定外の解決に繋がるかもしれない。しかし、それは相当リスキーな行為であり、そう簡単にできるものではない。視点を意識的にずらすことが必要なのだろう。没頭して凝視した後に漠然と眺める、そんな緩急を操れればと思うが、それが難しい。己が撮影した写真ですら類似カットの連発なのだから。
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始めることで見えてくる光景

07 26, 2018
こちらのテンションをいくら上げたところで状況は変化しない。「今日は写真を撮る」と意気込んでも理想的な被写体と出会える保証はどこにもない。ただ、ある程度経験を積んでくると「それなりの写真」を撮ることはできる。そして、そんな行為でも続けていると、それなりではない被写体がどこからともなく現れることもあり「今日の1枚」みたいなものが撮影できたりもする。しかし、それらを家で見直していると意外に始めの方で撮っていた「それなりの写真」の方が、何かのさりげなさがある分「今日の1枚」よりも魅力があったりもする。結局自分の意志なんてものは、状況に左右される脆いものでしかない。ただ行為自体は、何をさしおいても必要であることは間違いない。行為を起こした後で生じる「感覚的なその時々のノリ」みたいなものの方が、当初の意気込み以上に信用できる気がする。何かを始めるということは、その目的に到達するまでの間に、様々な偶然的無意識を起動させることであり、そういう曖昧な感覚の存在を知っておくと、現場でのアドリブに対する壁が低くなるように思う。結局、始めないことには何も始まらないし、始めることで見えてくる光景に対し、どう接していくかをその時々で考えるしかないのだ。気軽に一歩を踏み出す方が、綿密な計画を立てるより重要だったりすることもある。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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