適度に動き続ける行為

01 12, 2019
だいたい二週間に一度、漠然とした疎外感に取り巻かれる。定期的に来る症状なので「ああ、またその時期がきたな」と客観的には判断できるものの、そのやるせなさが消えるわけではない。対処法としては、なるべく些細な(ルーティンワークを続けるという類の)行為に集中するようにしている。いわば自分を理性だけで強引に動かす。暫くは、かなりの違和感を覚えるものだが、こういう行動を無理くり続けることで、少しづつしかし確実にやるせなさや漠然とした疎外感は薄まってくる。行動の強さを思う時だ。身体と頭が動くことで、何かが正常なバランスに戻るんだと思う。そして、静止状態の不自然さが招く余計な妄想の怖さを思う。適度に動き続ける行為が含む意味の多様さを思う。
sw2-280b.jpg
sw2-237b.jpg
0 CommentsPosted in 生活

可変と不変の絡み合い

01 01, 2019
テレビが壊れて以来、家にはテレビがなかった。無ければないでなんとかなるもので、そのままテレビを見る習慣自体が消えてしまい、少なくともここ2年ぐらいはテレビを見ていなかった。今回ある事情で年末にテレビを買った。時期が時期ではあったが、あっさり購入できた。随分と軽くなっていた。以前家にあったテレビよりも大きいのに、重さは半分以下ぐらいの印象で、時代の経過を感じた。ただ、受験生がいることもあり、設置はしたもののテレビをつけることはなかった。そして昨日、大晦日ぐらいはいいかと思い、テレビを見たのだが、ニュースや天気予報を見るだけで新鮮だった。ああ、説明してくれるんだと思った。その代わり、こちらが理解できない状態でも次のニュースは容赦なく始まってしまうのだった。当たり前だが、そんなことに一々感心していた。晴れや曇りのマークはあんなに動いていただろうか、番組の進行や画面の切り替えは、こんなに慌ただしかっただろうか、紅白も見たが、知らない人だらけである一方で「希望の轍」を聞くことになるとは思わなかった。言い尽くされてはいるが、全くもって変わるものと変わらないものが同時に共存していた。そして更に、その変わった中でも変わらない部分があるし、変わっていない中にも変わった部分があるのだろう。可変と不変の絡み合いをテレビを見ながら感じた。
sw2-291b.jpg
sw2-288b.jpg
0 CommentsPosted in 生活

手をかければかけるほど

11 27, 2018
事情があり木材に様々な塗料を塗っている。そんな単純作業が実に気持ち良い。塗れば塗るほど作業が進み、丁寧に重ね塗りすれば表面はより美しく仕上がる。手をかければかけるほど時間をかければかけるほど結果が充実する作業だ。おそらく多くの仕事において、作業量と結果は必ずしも比例しない。だからといって効率的な時短と結果の最大化を合わせて追求するのも如何なものか。このような分かりやすい着地点が約束されていると、実に心穏やかに作業が進められる。手間暇かけることの重要さを思い出す。良いものはそう簡単にはできない、そんな真っ当なことに気づく。
sw2-248b.jpg
sw2-252b.jpg
0 CommentsPosted in 制作

時間概念が薄らぐ

11 02, 2018
被写体を見ながら、僕は「今この時」と一体化するためにファインダーを覗いているんじゃないか、と思える時がある。というのは、被写体と自分だけの関係のみに集中する時、日常や過去や未来という時間概念が薄らぐことに、ふと気づくからだ。撮影している時、僕は明らかに何も背負っておらず、対象と一体化した実にシンプルな状態になる。言わば撮影を続ける限り「今この時」は終わらずに、僕は過去にも未来にも属していない状態になる。思うに、それはとても伸びやかな時間だ。通常そういう感覚になることはあまりない。今という時間は、過去と未来に挟まれており、そのどちらかの影響を受けざるを得ない。家族の今後なり、仕事の予定なり、過去に自分自身が行ってきた結果から自分が解放されることはない。しかし、写真を撮る「今この時」に関しては、それが消えている。過去も未来もない今だけだ。そう考えてみると、没頭状態とは時間との乖離を意味するのだろうか。つまり「今この時」を味わっている状態イコール、未来の不安なり過去の縛りからの解放、となるのかもしれない。「今を生きる」この使い古されたワードの意味が朧に見えそうな気がしている。
sw2-247b.jpg
sw2-251b.jpg
0 CommentsPosted in 制作

気がつけば全く原型を留めていない

10 22, 2018
見直せば見直すほどに修正すべき点が見つかり、気がつけば全く原型を留めていない状態になってしまうことがある。内容を作り上げることと、それを人に伝えることの違いを思う。そして、伝えることを明確にすればするほど表層はシンプルになる、しかし逆に深層へのイメージが膨らみ、内容自体が深掘りされていることにも気づく。分かってもらうための配慮が隅々まで行き渡っているかどうかを突き詰めることで、逆に内容自体に磨きがかかるのだろう。「理解は快感を伴う」らしい。ただ思うことは、理解された内容とは別に、制作者が理解してもらうために考えたであろう工夫の方が、快感を誘うのかもしれないということだ。
sw2-186b.jpg
sw2-249b.jpg
0 CommentsPosted in 制作

自分の濃度に戻っていく

10 08, 2018
国際展示場にあるビッグサイトで撮影をする必要があり、数日通ったのだが、あの巨大空間の中で人波に揉まれ続けながら、大量の情報を摂取していると、ある時点から自分がよくわからない状態になり、感じる力が極端に衰えてしまう。更に妙な不安感に襲われ始め、加速度を増して自分自身が稀薄になっていく。ビッグサイト酔いと名付けている。今回もやはりビッグサイト酔いになった。正直、あまり行きたいと思わない場所のひとつと言ってもいい。ただあそこから帰る際、東京駅行きのバスがあるのだが、それだけは良いのだった。大変時間がかかるため、とてもお勧めできるものではないが、ある意味、今の東京を眺める事はできる。茫漠としながら、バスに長時間揺られていると、希薄だった自分が、徐々に自分の濃度に戻っていく。ぼんやりする時間の貴重さを思う。
sw2-238b.jpg
sw2-236b.jpg

0 CommentsPosted in 制作

自我の膜を曖昧にする

09 25, 2018
簡易的に自我を解放するには銭湯がいいと思う。裸になって湯に浸かっていると、自分がその他大勢の中に混じり、己が湯に溶け出していくような気がする。自分を周りから固めている様々な物、服であったり対人距離であったり部屋であったりを取り去り、裸のまま湯という共有空間に自分を融合させてしまうのだ。実際、揺蕩う湯を通して自分の身体も複雑に屈折しているため、外見の輪郭も定まらなくなる。「気持ちがいい」とは自我で固められた自分を忘れることであるように思う。人間はとにかく徹底的に自分自身であり続けることを求められる。Aさんがある日Bさんになることは許されない。Aさんは基本的に死ぬまでAさんでなければならない。そういう自分を自分から解放すべく、旅行に行く人や登山する人等、様々な技があるわけだが、銭湯はその簡易さとして、最たるものではなかろうか。酒を呑むとか寝るという手法もあるが、通常の意識を保ったままで自我の膜を曖昧にするには、手足が完全に伸ばせる大浴場の湯に身を浸すのがいいと思う。Aという人物が、その時だけはA’ぐらいに緩くなれる。
sw2-182b.jpg
sw2-83b.jpg
0 CommentsPosted in 制作

現状維持に対する不可能性の顕現

09 14, 2018
ほんの少しの誤動作が決定的なダメージに繋がる時、微妙なバランスの重要さを実感する。当然ながら完璧な安定などない。全ては常に全壊の可能性を孕んでいるし、全壊する時は容赦なく全壊するものだ。しかし、それが終わりなのかといえば、意外にそうではなかったりする。では何なのか。おそらく全壊とは現状維持に対する不可能性の顕現だろう。それ以上続けていても、そのバランスはいつか崩れるというひとつの予兆なのだ。壊れる時は壊れるべくして壊れる、そういうことだ。そして酷なことに、丁寧な日々を大切に積み上げていてもそれは起こる。であれば、全ては無意味なのかといえば、決してそうではない。そうなる可能性を予測しておくこと。時には自ら変化を加えること、そういう意識の保持がバランスの継続に繋がる。そして、たとえ全壊してしまっても、過度に動揺する必要などない。次に何ができるのかを、その場所から少しづつ考えていけばいい。未来はそのためにある。
sw2-209b.jpg
sw2-202b.jpg
0 CommentsPosted in 制作

個人本心の吐露

09 09, 2018
一般的な常識や正論をかざす人の話しは基本的に面白くない。何故なら、そこには本心がないからだ。そういう一般論は実に上滑りしていく。ある程度の年齢になれば、正しいかどうかは聞く側が判断することであって、間違っても他者から押し付けられるものではない。しかし希に、正しいかどうかの判断を他者に委ねる人がいる。お手本に合わせる方が楽、世間の評価に従う方が楽、そう考える人のことだ。それが悪いとは言わない。ひとつの処世術だとは思う。しかし、僕が聞きたいのは、個人本心の吐露であって、世間の正論ではない。実は正しいかどうかも関係ない。逆に少々間違っていた方が、己で考え直すいい機会になるとすら思う。ファインダーから植物を見る時、少なくとも世間の正論みたいな見方だけは避けたい。写真は特に個人本心の吐露であるべきだと思う。sw2-143b.jpg
sw2-154b.jpg
0 CommentsPosted in 制作

誰にでも訪れる平等な偶然、もしくは幸運

08 31, 2018
何かをしていて、唐突に「美」とすれ違うと、一時的に気分がリセットされる。かなり疲れていても「美」の効果は機能する。あの「はっ」とする瞬間を体験する時、美しさの凄さを知る。「美」は、それまでの流れを見事に切断する力を持っている。ただ残念なことに、あまり長続きもしない。暫くすると「美」の効果は薄れてしまう。日常の分厚い流れが再び周囲を包み込んでしまう。結局「美」は、束の間の涼しい微風のような定まらない存在なのだろう。だからこそ、それを永続させるべく、様々な手法が試みられるわけだが、おそらくそれはどれも気休めでしかない。写真に収めたとしても同じことだ。「本物」は所有も記録もできない。逆に所有や記録されることで、その力は徐々に失われていく。であれば「美」は、誰にでも訪れる平等な偶然、もしくは幸運ぐらいに捉えた方がいいのかもしれない。
sw2-198b.jpg
sw2-163b.jpg
0 CommentsPosted in 制作
プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ