量子力学

02 08, 2011
明らかにその内容を半分も理解できていないのだが、こんなことを熟考している人がいると思うと結構楽しめた。

「量子力学の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う」大澤真幸(講談社)
「分かった」という人ほど分かっていないらしい量子力学を、芸術や政治の歴史と絡めて説明していく本書は、絵画の時代的な手法、小説における時間の流れ、政治家の目指した考えなどが、物理学を用いて横断的に分析されていく。それは、少々こじつけ感を伴うものの、同時代的に発生していく思考の進化を教えてくれる。相対性理論と探偵小説の誕生が、時間をめぐる同じ問題に対する応答として繋がっている、と論じる部分は鮮やかだし、社会学者である著者が、物理学を通して芸術を語る部分は新鮮だった。
ニュートンの古典力学では説明しきれない、電子や原子核などの間の微視的現象を説明すべく考えられた量子力学には、到底頭で理解できない不可解さがあり、それは神のイタズラかと思わざるをえない様相を呈しているらしい。アインシュタインは、その理論を全力で否定しようとした結果、逆にそれが強固なものであることを実証してしまったようだ。あらゆる物体の初期条件が測定できれば、その後の運動が完全に記述できる、と考える物理学には少し傲慢さを感じるが、実際それは成し遂げられないまま、歴代の学者の頭を悩ませてきたことを思うと、その現象として起こる事実を解明したいと思う気持ちは否定できない。そして現在では、巨視的な物理から微視的な物理までをほぼ完全に記述できるらしい。この「ほぼ完全に」が微妙なところだ。
しかし、未来についての知をすべて確定的なものに置き換えることは、「生きている人間」のことを「死者」の秩序に置き換えることと同じである、とシュレーバーさんは言っている。それはそうだろう。型にはめようとする人間の考えは、いつの時代もはぐらかされ続けてきただろうし、完全ではないということが、この世に存在できるひとつの条件かもしれない。現実に起こる全ての現象を予想する理論を考える人の頭とは、どんなものなのだろうか。思い通りにならないことが許せなくなる状態は危ういし、わからないことがあってもいいのではと感じるが、あくまで学者は知の探究者でなければならない、ということか。しかし完全なる知とはどのようなものなのだろう。そういう知に対して待ったをかけるべく、量子力学があると著者は主張している、のだと僕は理解した。以下引用。
量子力学では、普遍性は、だから「これですべてではない」という消極的な残余の形式で暗示されるのである。「これ」の向こう側に、積極的に、全知の神を措定しようとすれば、ここまで論じてきたように、逆に、ある種の無知をー<他者>の生についての無知をー代償にせざるをえない。とすればわれわれは、次のように言うこともできる。量子力学に至りついたとき、人間は、それについて無知である限りで、神とその下にある人間界の秩序を安寧が保たれるような、恐ろしい深淵を垣間見てしまったのだ、と。

まあ究極の完成はないのだと思う。それができたと言う人がいたら、逆にいかがわしい。それを先人達は伝えているように思えてならない。ジャコメッティの描く顔が、描き込み過ぎて真っ黒になり、結局なにも見えなくなってしまうように。終わりはその人の死によって唐突に訪れる。それまでいかに考え続けるかが、人に許されたエリアなのだろう。その問いかけに価値があれば、本人の存在とは無関係に、その意志は誰かが引き継ぐだろうから。
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