両極端

12 16, 2010
写真とそれを写した人の文章は、やはり密接に関係しているようで、その人の文章は、その人の写真にそっくりだった。

「実を言うと私は、写真のことを信用しています」荒木経惟(日本図書センター)
「話す写真 見えないものに向かって」畠山直哉(小学館) 

もともと好きではないし、これからも好きになれそうにない荒木経惟の写真は、特に見る気がないのに様々な展示で出没し、勝手にこちらの意識へ、雑音のごとく入り込んで来る感があった。浅田彰に欲望の垂れ流しと言われ、あの特徴的な外見で、自分のことを天才と連呼することで、風当たりも強かろうと思うが、彼にとってはそれらはたいした問題ではないのだろう。今回初めて彼の文章を読んで、その文体や内容があまりにアラーキーそのもので驚いた。以前、笑いに転化しないと恥ずかしい人種がいると書いたが、彼の場合はエロに転化しないと逆に恥ずかしいのだろう。真面目ないい話が、徐々に性的な単語で埋めつくされていく過程は、彼の展示そのものかもしれない。ただそんな彼も、妻を病気で喪う話に関しては、真面目に書かざるをえなかったようで、ひたすらそのままの思いを記述しており、なぜか安堵した。

荒木経惟はの展示は、プリントがそのまま壁に貼られていたり、そのプリントが印画紙でなくカラーコピーだったり、ポラロイドだったり、それらが壁面に埋め尽くされていたりして、とにかくうるさく主張するタイプであることが多い。
そして、それとは対照的な展示、つまりキッチリ額装された写真で展示空間をデザインし、写真も欲望から始まるのではなく、明快なコンセプトで貫かれた作品群で知られる畠山直哉の言葉は、そのまま作品の明晰さがのり移った丁寧な話に満ちていた。ご本人の姿を見た事はなかったが、アーティストトークの写真が載っており、その姿は誠実そうで、アラーキーのような怪しさが一切なく、信用するならこの人だという感じだった。作品を説明するその語り口は、修道僧のように純度が高く、思考していることも高尚で、その写真はアートとしての価値を越えて、学問的価値があるように思う。

さて、彼らの作品は同じギャラリーで扱われているのだが、実に対照的で同じ写真というベースがあるにも関わらず作品としての接点はほぼない。しかし、それは逆に写真の可能性の広がりを暗示しているとも言える。現在荒木氏は70歳、畠山氏は52歳である。それぞれの新作は、レディ・ガガを縛ったのが70歳で、山手通りをたんたんと描写したのが52歳、ということになる。どちらが元気かとなると、それは間違いなく荒木なのだろう。正直、山手通りの作品は難解だった。荒木経惟は70歳になっても「やっちゃえ、やっちゃえ」と作品を作り、畠山直哉は熟考に熟考を重ね続けている感じだ。どちらがいいかとかいう問いではない、それは個々人によってそれぞれの考えがあるだろう。ただ、制作するということに対しての決定的な違いを、この2人を見ていると解りやすい。
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