練習

01 10, 2010
小学生の頃、嫌々少年野球チームに入っていた。もちろん自分の意志ではなく、体が弱かった僕を鍛えるために親が入れたのだった。今思い出しても随分真面目なチームで、ほぼ毎週土日は練習か試合だった。当時の僕はそれなりに一生懸命やるのだが、上手な子供はたくさんいて必ず補欠扱いだった。試合はいつも応援で、夏は暑い中冬は寒い中、ただチームメートがピンチを迎えようが負けて泣いていようが傍観するしかなかった。どうしてこんなことに時間を使わなければいけないのか、考えてもよさそうなものなのだが、当時の僕は足りなかったのか、ひたすら親の言われるまま監督の命令のまま、真面目に練習し応援していた。自分の意志がそこに入ることはなかった。つまらないとは思いながらもボールを追っていた。

しかし、高校や大学でなんとなく野球をやる時、僕はそこそこ役立てる人材になっていた。下手でも毎週10時間位は練習していたのだ。ボールの投げ方や捕り方は知らぬ間に身に付いていたようだ。この時期になって初めて、意味がなくもなかったのだなあと思った。考えてみると高圧的な人への対応や単純な我慢の仕方、挨拶が人に与える効果などは、ここで学んでいたのかもしれない。そしてそれらは大人になると意味を持つ。
意志の尊重が、必ずしも良い結果に結びつくのかどうかは解らない。特に子供のそれは、その場での快楽が最優先だろうから、こと学習に関してはもちろん程度はあるが、嫌々でも相当意味があるのかもしれない。

やらされている感が強いものである時、大人は大抵それから逃れようと頭をひねる。しかし、それが今後どのように結実するかは予測できない。当事者は現状の地点からしか周りが見えない。視点が変化した時でしかその効果は見えてこない。これは子供に限った話ではなく大人にも当てはまるのだろうか。ただ、納得できない状況下において、現時点で見えていること以上の何かが、その境遇には内包されているものだ、と期待してもいいのなら、深刻な現状であってもそこに楽観的な視点を加えられるかもしれない。
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