ノイズ

12 05, 2010
事は思うように進まない。それは最初からわかっていることだし、予想したゴールからどれくらいズレて着地するのかが、面白いことのひとつくらいに思っていたのだが、それは日本人特有の考え方で、外国とくに西洋や中国では、事は思うように進まなければいけないらしい。
ノイズという偶然的要素を排除し、完成図に向かって忠実に仕上げることが重要なようだ。
僕の作品は言ってしまえば、その横ヤリとして入るノイズをいかに抽出するかということになっていて、完成図も設計図もない。あえていえばそれらは舞台としての機能を持つ。陶芸の世界だと、釜に入れる時間やゆう薬の使い方などでそのノイズを楽しんでいるわけだが、そこから例えると、陶芸でいう器としての機能の方を排除してしまい、炎まかせのところだけをいかに捉えるかに、僕は集中していることになる。

例えば玉を投げる。それを繰り返すうちに、玉がどう動きどこへ届くのかに差異が生まれてくる。そしてその行為にどのような制御が加わっているのかが感じられると、玉を投げるフォームが決まっていき、その玉の軌跡が予想できるようになると、その一連の必然的な動きがまとまってくる。そして、あるべきフォームで放たれた玉が、あるべくしてそこに生じたストライクゾーンに吸い込まれるという全ての動きが繋がる時、ひとつの原理に通じる舞台が整う。これは、プレーしながらルールを探っていくという感覚に近い。
ルールの抽出をプレーを通じて行い、その場面を通してルールを暗示させる、とういうこと。つまり最初に絶対的な原理があって、これは見えないルールとして何よりも先に存在していると考える場合、その原理をベースにあらゆる現象が起こるわけだが、僕の作業はその原理に近づくことが目的といえる。そしてその原理は、予想を覆す要素=ノイズとして現れるように思えて仕方がないのだ。

話は変わるが、人間は原理とは関係なく法律を作った。そしてそれによって人を裁く。ちょうど一年くらい前に起こった父の死に至る事件が、その法律によって再び動き始めたのだが、そこにはもう死というリアルな感情は問題にされず、警察の記述した内容だけで半年止められていた事件が、検察によって突然動いたりして、その生々しさを知らない者達が、その事件の判断を下していく。そういうものなのかもしれないが、まあ腑に落ちない。人間としての原理を無視した手続きへと変化していくその流れは、「それは違う」という本能的感情しか生まないだろうし、そういう思いの蓄積は、いつか理性を凌駕するのではなかろうか。
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