残ること

10 03, 2010
作品や名だけが残るというのでは『蜘蛛の糸』の、自分の下で糸を切るカンダタと同じことではないか。大事なことは、小説家は小説を書くことによって、作品や名を残さない人の生きた時間を不滅へ近づける道筋を探すことだ。(保坂和志)

種の生存年齢には様々な説があるらしいが、平均すると約1000万年とか言われており、そこで人類は少なくともあと100万年は生きるのではないか、と考える人が多いらしい。あのラスコー洞窟壁画登場から現在まで、まだ1万5千年なのに、これから80万年近くも人類は存在するらしいのだ。(人類の年齢をネアンデルタール人から数えた場合、現在20万歳となるため)
あらゆる芸術は、既にやり尽くされたという説は健在だが、この数字を見るとそうでもなかろうと思う。まだまだ新しい何かは生まれてくるはずだし、現在の金字塔的作品もどう残っていくのかは誰もわからない。ピラミッドや万里の長城だって100万年規模で考えれば、消滅する可能性は充分ある。地球は約50億年で寿命を迎えるらしいし、宇宙自体の終焉説もある。存在は必然的に消滅を伴うものであって、永遠という言葉もそこではもろいものだ。

話が拡大してしまったが、つまり名前や作品そのものは、残るべきたぐいのものでは無いのかもしれない、ということだ。しかし、創造行為を続ける人は、その時代の中で一定数存在し続けるとは思う。作品を通じてそれらの行為が引き継がれる現象は、人の存在と共に脈々と続いてきた。それはどんないいかげんな例でもいい。始まりは、憧れや自己主張の手段かもしないが、そんな動機はすぐに消える。もちろんそれと同期してステージを降りる人も多い。しかしその中に創造の何かを見てしまい、降りるに降りれなくなった人達がいるはずだ。彼らは何を見てそうなってしまったのだろうか。もちろんそれは人それぞれだろう。何と決められるものではない。
速度を競うスポーツ選手は、毎日同じゴールラインを目指して競技を続ける。ひたすら繰り返されるその光景に、ほとんど差はないと思う、しかし確実に変化を実感する時もあるだろう、例えば、自己記録を更新する瞬間だ。いつもと異なる感覚で近づいてくるゴールラインへの光景は、たぶんその選手にとって日常から脱却する快感を伴うはずで、その経験が競技を続ける源泉のひとつだろう。これをやってきてよかった、という感覚は、進化への本能と触れ合うような、充実感に満たされる経験と言えるかもしれない。
創造行為にそれが当てはまるかどうかわからないが、何かの拍子にそういった快感等を味わったがために、作者がやむにやまれず制作に向かう行為へと、繋がってしまうことはあるだろう。食べるためとか精神の浄化とか色んな飾りがそこに纏わり付いたとしても、全てはぎ取った中身は、なぜか没頭せねばならない感情が残るだけだ。

村上隆が「アートの世界は、50人くらいのプレーヤー(アーティスト、コレクター、ギャラリスト、キュレーター等)で動かされている」とどこかで話していた。お金の動きや彼の視点からすると、事実なのかもしれないが、うなずけない言葉だった。その選ばれし50人に入る熾烈な戦いは、そのまま蜘蛛の糸を上るカンダタの姿ではなかろうか。僕は、冒頭の保坂和志の言葉が、やたら輝いているように思える。できることなら、彼のように「作品を作ることで~」となりたいが、現在自分にその実力があるかどうかは疑わしい、であれば制作を通して創造の流れを見つめ、その進化を体験してみたいとは思う。残るか残らないかは自分で操れるものではない。
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