流れ込んだり流れ去ったり

08 04, 2015
通常、写真作品の展示を観た後は、そこに新たな視点やコンセプト、もしくは社会的事実や人間では不可視なミクロやマクロな世界を垣間見るといった、多種多様な何らかの経験が自分に残るものだが、この展示を観終わった後に、一体何が自分に残ったのかどうもよく解らない。前回の東京都写真美術館での展示「熊野、雪、桜」では、白い空間を通しての「桜や雪」黒い空間を通しての「炎」が、かなり具体的に脳裏に残ったのだが、今回の作品群は、さらなる抽象性が加わり、観ている写真の先にある対象が脳内で上手く実を結ばない、もしくは結ばれるのを拒んでいるかのように思えた。

「鈴木理策写真展:意識の流れ」東京オペラシティーアートギャラリー
「意識の流れ」というタイトルは「見るという行為に身をゆだねると、とりとめのない記憶やさまざまな意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりのような感情をもたらすことがある」という作者自身の経験に基づいて付けられたようだ。つまり、写されている光景にはその外観以外に、多大な撮影者の記憶や意識が盛り込まれている、ということだろうか。しかしカメラは機械的な道具で、心象的な無形物は物理的に写らない。「アレ、ブレ、ボケ」でそれを表現するのは随分昔の話だろうし、作者のカメラは8×10で機動性がすこぶる悪く、その手の撮影には適さない。
思うに、そこで登場したのが「水」だったのだろう。川の流れや海の波等水の動きをぼんやり眺めていると、自然と無心になれたりする。そして、水の動きそのものと自分の意識が溶け合う感覚は確かにある。撮影された流れ落ちる滝や、池に写る森林の光景などは、その流動性ゆえに像がどこまでも歪む。もしくは輪郭を曖昧にくらまして消える。水の別形である雪の場合は、その光の反射によって、色自体が極端な白に変換され見ているのに実体が見えない。そういう見るべき対象が様々な揺らぎの中に組み込まれた上で、鈴木理策特有の徹底的な「ボケ」が加わり、作品が成立しているように感じた。被写界深度を極端に浅くして、画面のほとんどがぼかされた雪の写真群のいくつかは、もうただの「白い平面」もしくは「印画紙そのもの」でしかない。それがどうなのかは、観る側の判断なのだろうけれど、少なくとも観る側の固定化された意識が流されていく感覚は味わえる。見ているのに見えてこない、もしくは見えているのに何が見えているのか判断しかねるような経験は、写真を通して感じる類いではない。8×10の良さは、その圧倒的な描写力にあるが、その描写の次元がずらされている作品群に翻弄される。
「ひとつのうねりのような感情」とは何なのだろう。もちろんそれは言葉にならない何かであって、その何かが海や森に漂う水を通してこちらの意識に流れ込んだり流れ去ったりしているのだ。そして自分の意識がどこにどのように在るのか、見える人は見えるのかもしれない。
展示は撮影可能で、9月23日まで。
risaku1.jpg
画像:http://prestige.smt.docomo.ne.jp/article/5572
risaku2.jpg
画像:http://heartysbox.exblog.jp/24704205/
関連記事
0 CommentsPosted in 展示

Previous: a warm sensor

Next: blue moon
0 Comments
Leave a comment
管理者にだけ表示を許可する
0 Trackbacks
Top
プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ