暗闇でドローイング
06 21, 2015
前回マグリットについて「そこに迷いや混乱や狂気等は一切無く、ひたすらな真面目さに満ちていた」と書いた。それは筆を持った作家が画面に向かうシーンを、僕が勝手に想像したものなのだが、この人の場合は全く逆で、出来る限り「迷い混乱し、狂ったかのように、もしくは(言葉は悪いが)不真面目的に」描くにはどうしたらいいかを、懸命に模索し続けたのではなかろうか。
「サイ・トゥオンブリー:紙の作品、50年の軌跡」(原美術館)
ロラン・バルトはその仕事を「ある意味では、絵画を視覚から解放した」とか「彼は光なしで描く」と評価した。それは絵画の新たな可能性を切り開いたことを意味しており、それまでは「幼稚」とか「無意味」等、散々な言われようだったのに、以降トゥオンブリーはどんどん巨匠になり、2001年にはベネチアビエンナーレに「レパントの海戦」を展示し、金獅子賞をもらっている。
以前ポンピドゥーセンターで、トゥオンブリーの展示を観た時は、老若男女プラス子連れ家族でごったがえしていた。もちろん、原美術館もそこそこ客が入っていたが、明らかに玄人的な方々が多かった。たぶん「見方」を知っている人達なのだろう。別にそこをどうこう言うつもりはないが、できれば子供世代がもっとこういう絵を観ればいいのにとは思う。実は娘を誘ってみたのだが断られた。マグリットは良いがトゥオンブリーは嫌だ、というのは解る気もするが、なんだか残念である。このはじけ方にどう反応するのか楽しみだった。
とにかくその作品を観ていると、自分に纏わり付いている理性が実にうっとおしくなる。人間ある程度生きていれば、皆何かに縛られ自由が効かなくなっているものだが、そういう固まったもろもろの何かを見事に粉砕する破壊力を、彼の絵は持っている。さすが、手を視覚から解き放つべく暗闇でドローイングしたというだけあり、絵というよりは、溺れてもがいた跡とでもいうのか、微妙な緊張と無駄な弛緩が共存していて、簡単な形容を許さない。その分、次の予想が出来ない上にうまく記憶も出来ない。だからだろうが、絵の鮮度が全く変わらない。いつ観ても初めて観たような印象を受ける。
写実的正確さや緻密さ、工芸的な美しさといったその作品の解りやすさが、最近何より幅を効かせているように感じるのだが、正直そういう凄さはすぐに把握出来る分、それ以上の秘密的要素が欠如しており、どうも好きになれない。誰が言ったのか忘れてしまったが「すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなる」のだそうだ。それを「すぐに解るものは、すぐに消費されてしまう」と言い換えるたら間違いだろうか。
知人が「これからはフリーハンドの時代になる」と言っていた。確かに手書きの場面がどんどんなくなり、手の動きは不自由になる一方だろう。手で何か出来るということが、価値になるのかもしれない。ただし、正確さが求められる動きは、どんどん機械に変わってしまうだろう。でもトゥオンブリーの作品を観ていると、こういう動きは機械では絶対に出来ないだろうと思え、なんだか嬉しくなる。
「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」林道郎(ART TRACE)の後半部分で、近年の作品(レパントの海戦)を批判的に観る意見がある。具体的な船が出て来るのはいかがなものかとか、その連作性が作品の奇妙で多重的で多方向な時間制を整序してしまってひっかかる等、なんとも手厳しい。そういう視点を加えると今回の展示は紙媒体に限った効果もあり、その実験的要素が満載で観る価値の高い仕事ということになる。とは言え、やはり理屈抜きで大画面の連作も観たいものだ。そこには一度目から解放された手の動きが、もう一度目を喜ばすべく戻ってきたような印象を受ける。以下、2009年に開館したミュンヘンのブランドホルスト美術館に常設展示されたレパントの海戦。

画像:http://kokouozumi.exblog.jp/16826438
「サイ・トゥオンブリー:紙の作品、50年の軌跡」(原美術館)
ロラン・バルトはその仕事を「ある意味では、絵画を視覚から解放した」とか「彼は光なしで描く」と評価した。それは絵画の新たな可能性を切り開いたことを意味しており、それまでは「幼稚」とか「無意味」等、散々な言われようだったのに、以降トゥオンブリーはどんどん巨匠になり、2001年にはベネチアビエンナーレに「レパントの海戦」を展示し、金獅子賞をもらっている。
以前ポンピドゥーセンターで、トゥオンブリーの展示を観た時は、老若男女プラス子連れ家族でごったがえしていた。もちろん、原美術館もそこそこ客が入っていたが、明らかに玄人的な方々が多かった。たぶん「見方」を知っている人達なのだろう。別にそこをどうこう言うつもりはないが、できれば子供世代がもっとこういう絵を観ればいいのにとは思う。実は娘を誘ってみたのだが断られた。マグリットは良いがトゥオンブリーは嫌だ、というのは解る気もするが、なんだか残念である。このはじけ方にどう反応するのか楽しみだった。
とにかくその作品を観ていると、自分に纏わり付いている理性が実にうっとおしくなる。人間ある程度生きていれば、皆何かに縛られ自由が効かなくなっているものだが、そういう固まったもろもろの何かを見事に粉砕する破壊力を、彼の絵は持っている。さすが、手を視覚から解き放つべく暗闇でドローイングしたというだけあり、絵というよりは、溺れてもがいた跡とでもいうのか、微妙な緊張と無駄な弛緩が共存していて、簡単な形容を許さない。その分、次の予想が出来ない上にうまく記憶も出来ない。だからだろうが、絵の鮮度が全く変わらない。いつ観ても初めて観たような印象を受ける。
写実的正確さや緻密さ、工芸的な美しさといったその作品の解りやすさが、最近何より幅を効かせているように感じるのだが、正直そういう凄さはすぐに把握出来る分、それ以上の秘密的要素が欠如しており、どうも好きになれない。誰が言ったのか忘れてしまったが「すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなる」のだそうだ。それを「すぐに解るものは、すぐに消費されてしまう」と言い換えるたら間違いだろうか。
知人が「これからはフリーハンドの時代になる」と言っていた。確かに手書きの場面がどんどんなくなり、手の動きは不自由になる一方だろう。手で何か出来るということが、価値になるのかもしれない。ただし、正確さが求められる動きは、どんどん機械に変わってしまうだろう。でもトゥオンブリーの作品を観ていると、こういう動きは機械では絶対に出来ないだろうと思え、なんだか嬉しくなる。
「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」林道郎(ART TRACE)の後半部分で、近年の作品(レパントの海戦)を批判的に観る意見がある。具体的な船が出て来るのはいかがなものかとか、その連作性が作品の奇妙で多重的で多方向な時間制を整序してしまってひっかかる等、なんとも手厳しい。そういう視点を加えると今回の展示は紙媒体に限った効果もあり、その実験的要素が満載で観る価値の高い仕事ということになる。とは言え、やはり理屈抜きで大画面の連作も観たいものだ。そこには一度目から解放された手の動きが、もう一度目を喜ばすべく戻ってきたような印象を受ける。以下、2009年に開館したミュンヘンのブランドホルスト美術館に常設展示されたレパントの海戦。

画像:http://kokouozumi.exblog.jp/16826438