手を動かすこと

05 13, 2015
そこに意味があるのか、どんな価値があるのか、と考えたとたん手は止まる。いかにそれを思わずに没頭できるかが、続けられるか終わるかの境目だ。「一体自分は何をしているのか」という他者的な視点は、一見冷静さに繋がる判断のようにみえるが、実は怠惰な思いを正統化するささやきに近い。
最近、再び手が動かなくなった。その分頭を動かしているつもりなのかもしれないが、それがどれほどのものか。それ以上に手を動かし、妙な考えから手を解放すべく行動した方がよいのに、どうも別の何かに逃げているように思える。そしてその別の何かとは、仕事だったり料理だったり娘の写真整理だったりと、最もな顔立ちをした周囲に評価される間違いのない行為だったりするのだが、これが一番の逃げ口上なのだ。そういうことをするのは別に悪くないが、そういうことをするために制作から離れても仕方がないという発想が恐ろしい。健全さが自分を蝕むこともある。そうではなく、もがきあがくような負の時間として経験されていることが、自分を形成していることもある。制作とは間違いなく快感に繋がるようなものではない。逆に自分が作品に縛り付けられ身動きが出来なくなる苦行に近い。
そこに最近入れなくなった。こうやって人は作品が作れなくなるようだ。そういう人が今までに何人もいたのだろう。僕もそういう人になるのかと思い、そしてそれは嫌だなと思う。何故だろうか、明らかにその方が楽だし常識的だしお金もたまる、そして思う。安楽で常識的でお金がたまる生活を嫌悪してきたのは誰なんだと。そういう価値観を否定すべく、今ままでの行為があったのではないのかと。

細かな描写や手数の多さ、写実的リアルの追求が蔓延するのは、確信が持てないからなのだろう。次の構築をするにあたり、理解されやすいし凄さも伝わりやすいからだろう。そしてそれは作り手にも同時に言えることだ。そこに蓄積された行為ぐらいしかその作品の強度に繋がらないのだ。だから最近は具象が多い。不安なのだろう、何だか分からないものが怖いのだろう。しかし、そうなると僕がやることはその逆でなければならない。こういう時だからこそ、抽象的で理解されずらく蓄積行為も見えない作品を考えるべきだ。
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任田進一

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