自らを犠牲にする藝術のおぞましい訓練
04 24, 2015
師匠は弟子を愛を持って見つめている。弟子にとってそれがどんな理不尽な訓練であっても、根底に潜むものは師匠の愛であってそれ以外ではないのが、今までの常識であった。しかしこの作品にそのパターンは通用しない。そもそも彼は指導者なのか、ただのエゴイストなのかよくわからない。彼のもとで学ぶ主人公も最大限の努力で師匠に認めてもらうべく魂を削るが、その裏切られ方が半端ではない。そしてそれは観る者の安心感を喪失させるに充分であり、それはそのまま作品の緊張感に繋がり、最後までその手綱は緩められない。
「セッション」監督 デイミアン・チャゼル 出演 マイルズ・テラー J・K・シモンズ
音楽大学という場所では、あのようなレッスンが普通なのだろうか。僕には従順な子羊達が狼の言いなりになって震え上がっているようにしか見えなかった。スキンヘッドのカリスマ教授が、目を見開き歯を剥き出し罵声を浴びせながら主人公に迫る様子は、猛り狂ったティラノサウルスの様で、あんな怒られ方をしたら誰だっておかしくなるだろう。抵抗しない学生に対し、あのスパルタ度合いはネジが外れ過ぎている。ちなみに娘にピアノを教えてくれる先生とあのカリスマ教授の指導法を比べると、モンシロチョウの羽ばたきと恐竜の咆哮ぐらい差がある。それでもそこの学生達は、そのカリスマ教授に心酔しているようで、彼に認めてもらうべく(卒業後の道を得るべく)必死の競争を繰り返す。もちろん教授は時々甘い飴も差し出す。そこに主人公や観客は愛を感じ、それを信じたくなるのだが、それがどうも怪しい。
褒められて育つのが最近の主流である。しかしそういう喜びの中でやる練習もあれば、なんとか教師を見返してやろうという怒りで上達する練習もある。主人公は自らを拷問にかけるような練習を繰り返したあげく、考え方に傲慢さが滲みはじめ親族からも嫌われる。生活の全てを音楽に捧げるその行為は、理解できない人には謎そのものだ。しかし、本気で何かをやり遂げようという意志の持ち主であれば「まあそうかもな」という深い諦めと共感を呼ぶ部分でもある。そういう自らを犠牲にする藝術のおぞましい訓練を経て、主人公の実力は間違いなく極限に達する。そしてそれは説得力を持って観客に伝わる。映画の宣伝コピーはこうだった。「ラスト9分19秒 ー 映画史が塗り替えられる」鬼気迫る主人公の演奏が始まった瞬間、僕は開いてしまった口を手で押さえるのが精一杯だった。

画像:http://www.fashion-press.net/news/gallery/14641/251190/1
「セッション」監督 デイミアン・チャゼル 出演 マイルズ・テラー J・K・シモンズ
音楽大学という場所では、あのようなレッスンが普通なのだろうか。僕には従順な子羊達が狼の言いなりになって震え上がっているようにしか見えなかった。スキンヘッドのカリスマ教授が、目を見開き歯を剥き出し罵声を浴びせながら主人公に迫る様子は、猛り狂ったティラノサウルスの様で、あんな怒られ方をしたら誰だっておかしくなるだろう。抵抗しない学生に対し、あのスパルタ度合いはネジが外れ過ぎている。ちなみに娘にピアノを教えてくれる先生とあのカリスマ教授の指導法を比べると、モンシロチョウの羽ばたきと恐竜の咆哮ぐらい差がある。それでもそこの学生達は、そのカリスマ教授に心酔しているようで、彼に認めてもらうべく(卒業後の道を得るべく)必死の競争を繰り返す。もちろん教授は時々甘い飴も差し出す。そこに主人公や観客は愛を感じ、それを信じたくなるのだが、それがどうも怪しい。
褒められて育つのが最近の主流である。しかしそういう喜びの中でやる練習もあれば、なんとか教師を見返してやろうという怒りで上達する練習もある。主人公は自らを拷問にかけるような練習を繰り返したあげく、考え方に傲慢さが滲みはじめ親族からも嫌われる。生活の全てを音楽に捧げるその行為は、理解できない人には謎そのものだ。しかし、本気で何かをやり遂げようという意志の持ち主であれば「まあそうかもな」という深い諦めと共感を呼ぶ部分でもある。そういう自らを犠牲にする藝術のおぞましい訓練を経て、主人公の実力は間違いなく極限に達する。そしてそれは説得力を持って観客に伝わる。映画の宣伝コピーはこうだった。「ラスト9分19秒 ー 映画史が塗り替えられる」鬼気迫る主人公の演奏が始まった瞬間、僕は開いてしまった口を手で押さえるのが精一杯だった。

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