会話の摩擦感

04 19, 2015
ずっと神奈川県で育ち、今も調布に住んでいるので、僕には標準語が染み付いているのだが、家では関西弁的な話し方をしている。「~やんな」とか「そうやで~」みたいな部分が僕はどうも好きらしく、京都出身である妻の口調に合わせていたら気持ちが良いので、以後そのまま使っている。しかし本物の関西弁が行き交う妻の実家で話す勇気はないので、そこでは標準語に戻る。英語でしゃべるのを躊躇する日本人みたいだ。そしてその関西弁空間は、明らかに標準語空間よりも会話の摩擦感が少ないように感じる。そのためか、途切れることなくおしゃべりが延々と続く。(僕はずっと傍聞?している)話せば話す程に連続して発語できるとか、ひたすら気分が高揚するとかいう要素が関西弁には多分に含まれているのではなかろうか。また僕だけかもしれないが、関西弁で話しかけられると、相手が自分に対してなんとなく親しげな印象を持っているように感じてしまう。

「逢沢りく」ほしよりこ(文藝春秋)
心が凍った東京人(美貌の女子中学生)が、理不尽な事情により関西弁空間に浸かることで、氷の心がゆっくりと溶けていくハートウォーミングな話しとして評判になっている。涙腺崩壊とか言われているが、僕は絶妙に配された会話の妙味にしびれた。シリアスな会話の横で、実にどうでもいい話しで盛り上がっている親同士とか、こちらが言っていることを別の方向で受け止め、一方的にまとめられてしまうところとか最高だった。関西人の妻と義母と義姉の話に入れない東京人の僕にとっては、深く頷ける部分が多々あった。またサラサラと描かれた絵がコテコテの関西弁に上手く調和しており、読み始めに覚えた違和感も中盤を過ぎる頃には流れるように読めてしまう。これも関西弁的空気抵抗感の演出だろうか、著者の力量を感じるところだ。
関西弁で繰り広げられる妻と義母と義姉の話を聞いていて思うのは、重要な案件とそうでもない案件が混在していることだ。であるから心半分に聞いていると、とんでもない内容を話していたりする。それがどれもこれも同じテンションなので油断できない。本書でもそういう流れが多々ある。ここは関西的あるあるネタの披露だなと弛緩して読んでいると、いきなり予想外の事実が発覚したりする。ああ関西弁空間だなあと思う。関西弁に好意を持つ東京で育った人にとって、本書はたまらん旨みがぎょうさん詰まった話しやで。
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