少しづつ生まれる距離

03 31, 2015
ボーゲンというのか足を開いた直滑降なのか判別しづらいところだが、みるみる遠ざかっていく娘を追いかけながら、ひたすら親の視点を感じていた。それは、 転倒時に追いついての状況確認や、急な斜面での指示出しとかではなく、後ろで滑っている親のことなど考えずに、どんどん前進していく姿勢を見続けるしかないというその関係性が、親の視点そのものなのだった。以前は「〜行こうか」と誘うと、笑顔満載でついてきたのに、最近は「興味ない」とか言われるので、なんとか一緒に遊べるものをと思い、スキーをこの冬から始めたのだが、そこでもやはり「遠ざかっていく娘」というシーンを見ることになるのだった。

先日ピアノの発表会があった。娘の腕前は同学年でも最初の方に出番がくる程度なのだが、少なくとも僕よりは上手であるため、まだまだ問題はあろうが、保育園時代から習ってきた継続力を感じるには充分なものだった。ステージに独りで登場し、お辞儀をして弾き始める姿を見ていると、それは「遠ざかる」のではなく完全に「手が届かない」のであった。
今まで「子を見る」というのは、振り返ってついて来ているかを見下ろして確認することが、その基本行為だったが、最近は自転車をこいでも途中で抜かれるので追いかけてばかりになった。発表会においては完全に下から見上げていた。娘を見る首の角度が変化し、目が結ぶ焦点も距離が離れてきた。

朝、駅へ向かう道に桜が咲き始め、もうしばらくしたら満開になる。この道を使い始めたのが去年の冬なので、春のシーンは初めて見る。300m程度一点透視法的に桜が続くので、かなりの見応えだ。遠くにいけばいく程、桜の花びらが点の集合になり重なり合うと実体感が消え、やたらと幻想的に見える。桜はその散り際がいつか、という緊張感があの尊さに繋がるのは今更言うまでもないが、全く同じように、元気な子供を見ていると、その裏側で別離の予感を意識してしまう。一気に離れるのではない、その少しづつ生まれる距離に敏感になる。
sakura2015.jpg
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By 十倉宗晴04 11, 2015 - URL [ edit ]

来月POLARIS☆The Art Stageでの展覧会DMお送りしたいのでご住所をメールでお教え下さい?

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