再会

09 03, 2010
あなたはこれだけの時間を生きた、と言わんばかりの容赦ない告知として、自分が紛れもない「有限」の中にいると実感する時がある。
先日ある依頼をすべく、10数年ぶりに高校時代の友人と会ったのだが、正直彼の姿を見て、その仕草の変わらなさと共にある、外見の変わりように愕然とした。そして、間違いなく僕も同じように彼に見られているわけで、たぶんお互いを、鏡に写った自分のように見ていたのではないかと思う。今思い返せば、そんなに鬼気迫る変化でもないはずだ。うっすら髭があったのと、髪の本数が減り白髪が増えたくらいだ。そんなに驚くことでもないし、みんなそんなようなものだ。しかし、僕は明らかにそこに何かを見ていた。ひとつは、僕が選べなかった道を選択した彼の姿が、もし僕がその方向へ進んだら、という仮定を顕現させたイメージにぴったりだ、という思いだった。もちろんそんな単純に物事は進まないし、変化は個人それぞれで異なる現実は、わかっているつもりだ。

僕は大学を卒業した時点で就職し、彼はそのまま大学に残る道を選んだ。お互いそれなりの苦労があり、それぞれ突き詰める何かを持ち、生きるべく選択した必然の中にいる。ただ、もし自分に他の選択肢があったらどうなったか、という仮定は、それなりに気になる。僕は彼の姿に、別の生き方で39歳なった場合の自分を見ていたのだろう。そこに羨望なり落胆なりの感情はない。ただ、友人の姿を借りたリアルな事実がそこに座っている感じで、僕は勝手にひたすら納得していた。つまりそこに「有限」を見たのだと思う。

折り返し地点を過ぎたという捉え方でもいい。ただ伸びて行く時期は終わり、なんとか自分の力で折り合いをつけて進むしかないという感覚。だいたいの自分の能力を知り、そこで何が出来るかを考える時期、もう肚をくくるしかないという覚悟または諦め、そういった限りあるフレームとして自分に設定された現実が、彼の姿を通して自分に染み込んでくるような時間を過ごした、ということだ。
そして、それは心地よくもないが、悪い時間ではなかったと思うのだ。
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