部屋のどこかに、その人は潜む

12 08, 2014
黄色のイチョウと青色の空が眩しい日曜の午後、娘とリニューアルした目黒の庭園美術館へ行ってきた。たぶん普通の展示ではないだろうし、小学2年でも楽しめると予感した。そしてそのもくろみは成功だったと思う。美術館のイメージというものがそれなりに出来上がっている娘にとって、内藤礼の作品は、見事にそれを裏切る魅力と繊細さに満ちていた。

「信の感情」内藤 礼(東京都庭園美術館)
繊細という感覚が芽生えるのはいつ頃なのか。小さな子供にもそれに似た感覚はあるだろうが、8歳でそれをイメージ通りにアウトプットするには、まだ手の技術が未熟だ。絵を描くにしろ文字を記すにしろ、手に馴染む鉛筆はキンキンに尖らせるより先が丸い方だ。それだってバキバキ折ってしまう。そいう感覚しか知らない人間にとって、内藤礼の限りなく白に近い絵画とか、どこにあるのか見つけるのが困難な小さな彫刻は、どのように見えて、どう記憶されるのか。僕が初めて内藤作品を見た時の感覚が、娘の場合はどうなのか、いつか語彙が増えた頃に聞いてみたいと思う。
会場内はアール・デコ装飾に彩られたあの美術館が、どう新しくなったのかに興味を持つ人々の方でそれなりの入りだったが、自由には動けた。娘は、小さな人型彫刻が点在するという今回の内藤作品の仕掛けを理解すると、頭がそのモードにシフトしたのだろう、それぞれの部屋のどこにその人が潜むのかを探すことに集中し発見し、楽しんでいた。そしてその存在場所としての共通性を教えてくれるのだった。

内藤礼は、震災後直感的に「人を増やさねばならない」と思い、人体の制作を始めたそうだ。今までそういう具体物よりも、その周囲にかすかに漂う気配のような何かを作品にしていたように思うが、ついにそうもいってられなくなったのだろうか、削られたバルサの人体が、あの美術館のそこかしこにある鏡に向かって静かに立っていた。(建物の内装は色々変わっているが、鏡だけは出来た当初のままだそうだ)
2008年に船越桂が同じ場所で展示していたことを思い出す。船越の人体彫刻はほぼ実物大なので、各部屋に合わせて、それぞれの部屋にどの作品が居るのか、会いにいく感じが面白かった。そして「部屋と人」という関係がしっくりとはまり、庭園美術館でしかできない見事な展示になっていた。
比べる必要はないが、内藤の人体彫刻はとても小さい。レゴに付いてくる人形くらいの大きさしかないうえ、ポーズも表情もない。それぞれ微妙に違うらしいのだが、目の色以外のその差異までは正直目がとどかなかった。それよりも、実はずっとここに居ました。これからもずっとここに居ます。とでもいうような霊的な見え方が印象的だった。常に希望と向き合っているというその人体彫刻の在り方や「地上に存在していることは、それ自体、祝福であるのか」という内藤の追求テーマは、とても美しいし誰も否定しないだろう。しかし何故結え、ここまで儚い存在感なのだろう。いや、だからこそ強い力を持つのだということも、もちろん理解できる。ただ、強い意志を持って作品を見ようと思わない限り、その存在自体に気づけないような、吹けば飛んでしまいそうな繊細さは、ますます加速し極端なことになったのではなかろうか。そんなにも希望や祝福がおぼろげになってしまうほど、今はしんどい時代なのだろうか。選挙があるようだが、この繊細さに気づける候補者がいるだろうか。
お腹減ったを繰り返す娘と手をつないで美術館を出た。だいぶ寒くなった。
展示は今月25日木曜日まで。
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画像:http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/141122-1225_naito.html
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任田進一

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