手数とその密度
09 17, 2014
通常デザインの仕事は、その見え方であったり、効果であったり、影響であったりといった、その仕事が「どう社会的に受け入れられたのか」という部分が多々問題になり、そこで結果が出ていないと、それは「よろしくないデザインだった」という評価に繋がることが多い。そしてそういう種類の仕事を続けていると、いかに最小限の手数で最大の効果を生み出せるかとか、いかに効率よく及第点を取るかといった「消費社会の速度」に制作方法を合わせていかないと、実際仕事が進まなくなる。そして、そこにどっぷり浸かっていると、以前は確実にあった制作者としての純粋性が薄れ、消費されること前提の「一時の何か」しか作れなくなってしまう。それは寂しいことだが、多くの方々はそれを承知で、突き進むしかない。「それは違う」と誰もが言いたいのだが、それは今、誰もが言えない台詞となっている。
「岡本太郎とアール・ブリュット 生の芸術の地平へ」岡本太郎美術館
板橋の展示で一緒だった中津川浩章さんが企画に深く関わっておられる展覧会、そこで夏休み最後の日に娘と観に行った。娘は中津川さんの作品を観て、別の美術館で見た絵が何故ここにあるのか、という事実に驚いていたが、僕は展示されている全ての作品ひとつひとつに込められた、作者の手数とその密度に驚いた。そこには、姑息な手段や処理を相手にしない、ひたすら制作に対する一途な姿勢しかなく、作る心の根本があるように思えた。作品からは、作者それぞれの労力と集中力がストレートに見えてくるが、同時に奔放なユーモアも感じられ、素直に面白い作品がたくさんあった。
色んな事情で生きる人間が、何かを作ろうと思いつき、手本も何もない中で、その個人的な思いなり何なりを形にしていく行為は絶対的に尊い、しかしそれがイコール価値かどうかはわからない。しかし、こういう仕事を目の前にすると、自分がいかにつまらない価値感に縛られているかを自覚しつつ、そこを通してどれだけ「消費社会の速度」に惑わされていたかを思う。
ただ、僕はそうだったかもしれないが、世間は愚かではない。そろそろ効率最優先では行き詰まること、消費が最大の歓喜ではないこと、速度が大した価値もないこと等、様々な見せかけに気づいている。そこを隠そう、見ないようにしよう、という思考はもう無理がある。
展示作品の数々に影響されたのだろう、無性に無心になる作業をしたくなり、手を動かすことにした。考えるのではなくひたすら手を動かす。そこで生まれる形を尊重しつつ、そこであえて否定し、新しい形をその上に作りまたそれを否定し、という行程を繰り返すのだが、これがいつの間にか無心になれて楽しい。こういう時間をしばらく忘れていた。この試作がきっかけに新しいシリーズが出来るかもしれない。観に行って本当に良かったと思う。そして、そういう展覧会は多くない。10月5日まで。
「岡本太郎とアール・ブリュット 生の芸術の地平へ」岡本太郎美術館
板橋の展示で一緒だった中津川浩章さんが企画に深く関わっておられる展覧会、そこで夏休み最後の日に娘と観に行った。娘は中津川さんの作品を観て、別の美術館で見た絵が何故ここにあるのか、という事実に驚いていたが、僕は展示されている全ての作品ひとつひとつに込められた、作者の手数とその密度に驚いた。そこには、姑息な手段や処理を相手にしない、ひたすら制作に対する一途な姿勢しかなく、作る心の根本があるように思えた。作品からは、作者それぞれの労力と集中力がストレートに見えてくるが、同時に奔放なユーモアも感じられ、素直に面白い作品がたくさんあった。
色んな事情で生きる人間が、何かを作ろうと思いつき、手本も何もない中で、その個人的な思いなり何なりを形にしていく行為は絶対的に尊い、しかしそれがイコール価値かどうかはわからない。しかし、こういう仕事を目の前にすると、自分がいかにつまらない価値感に縛られているかを自覚しつつ、そこを通してどれだけ「消費社会の速度」に惑わされていたかを思う。
ただ、僕はそうだったかもしれないが、世間は愚かではない。そろそろ効率最優先では行き詰まること、消費が最大の歓喜ではないこと、速度が大した価値もないこと等、様々な見せかけに気づいている。そこを隠そう、見ないようにしよう、という思考はもう無理がある。
展示作品の数々に影響されたのだろう、無性に無心になる作業をしたくなり、手を動かすことにした。考えるのではなくひたすら手を動かす。そこで生まれる形を尊重しつつ、そこであえて否定し、新しい形をその上に作りまたそれを否定し、という行程を繰り返すのだが、これがいつの間にか無心になれて楽しい。こういう時間をしばらく忘れていた。この試作がきっかけに新しいシリーズが出来るかもしれない。観に行って本当に良かったと思う。そして、そういう展覧会は多くない。10月5日まで。