かつて在った、という感じ

04 08, 2014
最近「手数の凄さ」をアピールする作品群をよく見かける。日本人らしい手技の結晶のような作品達で、どれも繊細で巧妙で完成度がある。難しいコンセプトが理解できなくても、作品の凄さが容易に感じ取れるので、人気が高いのかもしれない。そしてそれらには、明らかに既存の美を利用しつつ、新しい見方によって驚きを誘うタイプと、美とかけ離れた素材に、ある行為を込めることで、全く別ものとしての存在を立ち上げるタイプがある。そして先日、福田尚代と髙田安規子/政子の作品を観た。

髙田安規子/政子の作品は、軽石やトランプ、吸盤といった日常品に、細かな細工をすることで、宝物のような誰もが大切にしたくなる美を出現させる。トランプに刺繍してペルシャ絨毯※1を、透明な色付き吸盤に切り込みを入れ江戸切子を、どれも極小サイズで出現させる。目が釘付けになる体験が幅広い世代で可能であり、誰もが賞賛しそうな作品群である。
逆に福田尚代の作品は、消しゴムの中身を削り取り、細い枠だけになった消しゴム※2が林立していたり、方眼紙の1mm枠の中に極小の文字で詩を書いたり、文庫本のページに針で穴を開け、文字をあえて読めなくしたりといった、明らかに鑑賞者の戸惑いを誘うものである。幼い頃、授業が退屈でなんとなく始めてしまった些細な行為を、本格的に全身全霊でやりつくしているような印象を受け、かなり感動した。特に、作者が読み終わった本に付いている栞の細い紐をほどいて集めたという、雲のような作品は、様々な色が混じり合った結果、淡い白を生み出すという、まるで光の三原色を合わせたような効果は、色が色として認識できず、目の焦点が合わない。自分がどこを見ているのか解らなくなるような体験は、ウォルフガンク・ライプの敷き詰められた花粉を思い出した。

この2者の作品は、サイズが似ていることや、細かく気の遠くなるような手数で構成されていることなどで比較しやすいが、やっていることは全く異なる。そして僕は福田尚代の作品に深い不安を覚えた、どういうことか。たぶん髙田安規子/政子の制作行程は、そういう作業が苦にならない人にとって楽しい時間だと思う。その手数と出来が比例するような関係は、裏切られることがなく、着実な進歩が体験できる。しかも完成が解りやすく仕上がりも美しい。その作業に対して作者自身が不安になることはないだろう。しかし、福田尚代の制作過程は、他者が見たら正直病的な恐ろしさを孕んでおり、たぶん作者も、こんなことをしていて自分は大丈夫なのか、という問いただしの連続だと思われる。そして完成がどこにあるかも解らない。しかし、作品をつくる人間にとって、こういうヤバい過程は常に隣り合わせで、その制作時間の多くが不安の中にある。福田尚代は、不在や非在をテーマにしているらしい。僕は非在という言葉を初めて意識した。普通作品というのはその存在感をアピールするものだが、福田にとっては、その不在や非在をアピールするということなのだろう。「非在=もうこの世には存在しない」このかつて在った、という感じが亡くなってしまった人達や儚さといった無常観を想起させ、なんともかなしい気持ちになるのだが、そういう「かなしみ」は大切にするべきだとも思うのだった。

この2作品は、東京都現代美術館の「MOTアニュアル2014 フラグメントー未完のはじまり」で観ることができる。他にも既存のボトルをヤスリ尽くすことで、海で拾ったガラスの破片のような美しさを立ち上げる青田真也の作品等が展示されている。来月11日まで。
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※1画像:http://amtakada.com/ja/works/trump-card 
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※2画像:http://www.cinra.net/review/20140307-motannual
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