愛情の視覚化
04 03, 2014
娘のピアノの発表会へ行った。今年は「おさらい会」ではなく「発表会」なので、それなりに立派な箱だった。演奏される曲もかぶることなく、皆それぞれのレベルに合わせて、自分に課せられた曲を披露していた。45人の子供達が順番に弾いていくのだが、正直始まって半分くらいまでは「子供の演奏」という感じだったが、それ以降はどれも「大人な演奏」をしていて、普通に聞き惚れてしまった。1年前にも思ったことだが、彼らは自分がやっていることの偉大さを理解しているのだろうか?全く同じことを今回はより強く思った。先生の好みなのかもしれないが、激しく鍵盤を連打する曲が多く、小さな子供がガンガン弾いている感じに、なんだか勇気づけられるのだった。
しかし、僕はひとつの失敗をしてしまう。今回は「発表会」なので、最後の合唱を前に、ステージにずらりと並んだ子供達へ花束をプレゼントするのが恒例らしく、花束を事前に用意するよう指示を受けていた。僕は当日、会場の近くの花屋でその花束を用意すべく、そこへ行ったのだが、なんともどうにもならない花屋で、自分で見ても相当微妙な花束になってしまった。そして、それをすまないと思いつつ、舞台上の娘に渡したのだが、実に悲しそうだった。確かに皆の花束の迫力は見事なもので、予算のかけ方から、花の種類から根本的に別物で、これは完全に僕のミスであった。中には祖父母と両親、友達等、2つ3つ抱えている子もおり、どうしても貧相に見えてしまう花束を持っている娘が、つらそうな表情で立っているのが切にかわいそうで、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
子供の晴れ舞台に対する親の気合いの差を、見せつけられた感じで猛省を余儀なくされたが、思えばそれは普段のレッスンに対する姿勢から、その差はあったのかもしれない。娘の通うピアノ教室は、小1がひとりで行くには少し遠いので、レッスンが土曜日なのをいいことに僕が付いていく。そして、娘と先生とのやりとりを同じ空間で見学するわけだが、僕はその時間を「休日の音楽付きリラックスタイム」ぐらいに考えており、半分まどろみながら本など読みつつ過ごしていたのだが、ある親は練習の密度を上げるためだろう、レッスンをビデオカメラで録画しており、そこにはまどろみなどという甘い空気は一切ないのだった。ちなみにその子は、発表会でも最後の方でようやく登場し、ショパンを情感たっぷりに弾きこなし、聴衆を魅了していた、見事であった。
一方うちは、僕も妻もピアノが出来ないので、既に今の時点で娘が家では一番上手である。今回の娘の登場は、始まって5番目なので大した曲でもないが、とりあえずつっかかることなく最後まで弾いただけで、親としては大満足だった。しかしきっとそれでは駄目なのだろう。ただ、そんなゆる親だが、娘に対する愛情で負けるつもりはない。花束の差が視覚的な愛情の差に繋がってしまうこと、よくよく理解できた。次の発表会は2年後だが、もしまだ娘がピアノを続けていれば、次こそは舞台に立つの娘に、驚きの表情を持って受け取ってもらえるような花束を用意しよう、そう思うのだった。

しかし、僕はひとつの失敗をしてしまう。今回は「発表会」なので、最後の合唱を前に、ステージにずらりと並んだ子供達へ花束をプレゼントするのが恒例らしく、花束を事前に用意するよう指示を受けていた。僕は当日、会場の近くの花屋でその花束を用意すべく、そこへ行ったのだが、なんともどうにもならない花屋で、自分で見ても相当微妙な花束になってしまった。そして、それをすまないと思いつつ、舞台上の娘に渡したのだが、実に悲しそうだった。確かに皆の花束の迫力は見事なもので、予算のかけ方から、花の種類から根本的に別物で、これは完全に僕のミスであった。中には祖父母と両親、友達等、2つ3つ抱えている子もおり、どうしても貧相に見えてしまう花束を持っている娘が、つらそうな表情で立っているのが切にかわいそうで、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
子供の晴れ舞台に対する親の気合いの差を、見せつけられた感じで猛省を余儀なくされたが、思えばそれは普段のレッスンに対する姿勢から、その差はあったのかもしれない。娘の通うピアノ教室は、小1がひとりで行くには少し遠いので、レッスンが土曜日なのをいいことに僕が付いていく。そして、娘と先生とのやりとりを同じ空間で見学するわけだが、僕はその時間を「休日の音楽付きリラックスタイム」ぐらいに考えており、半分まどろみながら本など読みつつ過ごしていたのだが、ある親は練習の密度を上げるためだろう、レッスンをビデオカメラで録画しており、そこにはまどろみなどという甘い空気は一切ないのだった。ちなみにその子は、発表会でも最後の方でようやく登場し、ショパンを情感たっぷりに弾きこなし、聴衆を魅了していた、見事であった。
一方うちは、僕も妻もピアノが出来ないので、既に今の時点で娘が家では一番上手である。今回の娘の登場は、始まって5番目なので大した曲でもないが、とりあえずつっかかることなく最後まで弾いただけで、親としては大満足だった。しかしきっとそれでは駄目なのだろう。ただ、そんなゆる親だが、娘に対する愛情で負けるつもりはない。花束の差が視覚的な愛情の差に繋がってしまうこと、よくよく理解できた。次の発表会は2年後だが、もしまだ娘がピアノを続けていれば、次こそは舞台に立つの娘に、驚きの表情を持って受け取ってもらえるような花束を用意しよう、そう思うのだった。
