仰々しいモノではなく

03 12, 2014
「解答」を見た時「ああ、こんなことで良かったのか」と思う。そして、どうしてこんな簡単なことが思い浮かばなかったのか、と身の程を知るわけだが、実はその簡単なことが要は簡単なことではなく、とても困難なことなのだ。簡単そうに見えるその「解答」に潜む数多くの回り道やボツ案を見抜かなければならない。そして、次こそは自分がその「解答」に辿り着くにはどうすれば良いのかを考える、という日々を思えばずっと過ごしている。

モノを作るとき、特にそれが依頼から始まるクライアントに向けての場合、どこにその「解答」が在るのかを探す前に、まずどういう姿がそのモノにふさわしいのかを考える。その特徴を踏まえつつ、世の中の流れや売られる価格、かけられるコスト、競合商品との差別化等々、数あるハードルをクリアして行くほどに、その姿は朧げなものから徐々にピントが合って、その全貌が見えてくる。この時、それがそのモノに関わる人々全てにスムーズに同じ様に見えてくれば、それはあまり問題が起こらないままに「解答」へゴールできるのだろうが、人によって様々な姿が見えてしまい、どうにも統一できないとき、その「解答」は幻に変わりどんどん遠のく。そのうちどこを歩いているのか、そもそもこの道は正しいのかという不安がこみ上げ、袋小路に追い込まれ、問題を複雑化してしまう。それはいい兆候ではない。しかし、やたらスムーズにゴールしてしまった「解答」が魅力的とも限らない。そこに潜む紆余曲折がない分、厚みに欠けそうである。波瀾万丈な経緯を踏まえつつ、必要な要素を最小限でズバッと言い当てたような「解答」が理想的なのかもしれないが、それはとても大変なことだ。そして今日も、どうして僕はこんなところにいるのだろう、という迷子状態が続いている。そういう迷子用に、道には色々案内板もある。「こっちが近道です」とかだが、それも怪しいものだ。途中で一緒に歩くメンバーが増える場合もある。相談し合って悩みを共有し道を決めて行く、時々だが、それが見事な「解答」に辿り着くこともある。けれど夢中だった分、後でその道を振り返ってもどこをどう通って来たのか記憶は定かでない。珍しく、道を覚えていたとしても同じ道が次も通れるかどうかはわからない。その分かれ道に立たなければ、何もわからない。

自分が出した「解答」は、他者にどう見られているのだろうか、できればそれは複雑な何かを持った仰々しいモノではなくて「ああ、こんなことで良かったのか」とかであったらと思う。凄そうに見せることは逆に簡単なのではなかろうか、そうではなく「あれ、こんなところに答えが」みたいな作品を創れないかと常々思う。
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