自然

07 23, 2010
自然はそのスケール関係なく自分の思い込みを打破してくれる。長期にわたり、植物や水を撮り続けられたのは、常に予想を躱される刺激があったからだし、根拠はないが、何よりも正しいのは自然だろう、という思いもあるからだ。いつの時代も、人間はなんとか自然を意のままに操ろうとしてきた。結果その恵みを享受できたが、逆の事態もあったはずだし、最終的に翻弄されるのは人間の方だろう。そして、適わない存在を少しでも知りたいという欲が生まれるのは、それほど不思議なことではないと思う。
初めて多摩川の雑草地帯に迷い込み、その茂みと向き合った時、自分が消える感覚になったことを、僕は明確に覚えている。それまで制作とは自分をどう出すかが重要だと考えていたが、自分を消し去ることで、初めて作品の中の自分が見えた気がした。以後その雑草地帯で紛れ込むように撮影を続けた。言ってみれば自己消滅の快感だった。生活していれば常に自分の名前を背負わねばならないが、視界から人工物が消える場所で雑草と向き合う時、自分の名前は関係なかった。そうして早朝の意識が茫漠としている時間に、真っ白な状態でその場に溶け込む回数を重ねるうち、道ばたの雑草が以前と違って見えるようになった。それは感覚が進化する体験であり、自然を信頼しようと思ったきっかけは、そこだった。もちろん今も揺らぎはない。詳しく書けないが、現在続けているシリーズも極小サイズの自然といえる。要素は2つしかないが、醸し出される形は単純で複雑で無限だ。
僕の制作欲をひとことで言うとすれば、自然の構成要素をほどき、それらがどう絡んでいるのか凝視したい、ということになる。もっと突っ込めば、それを続けることで、さらなる感覚の進化を実感したいのだ。

月末にギャラリストがスタジオに訪れることになり準備をしている。最新作と過去作品を合わせて見せる際、何を言おうか考えていたのだが、たぶん上記の内容を話すように思う。わかってもらえるだろうか。 
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