ぼやけた白世界で深い霧のなかにいる
04 24, 2013
眼は大切だ。しかし僕の眼は視神経が萎縮しており、これが原因で最悪の場合失明に繋がることもあるらしく、定期的に眼科に行っているが、幸い今のところ症状の悪化はない。けれど気の毒なことに世の中には、ある日突然理由もなくとか、不条理な事故によって失明した方々がいる。ウィキペディアにはこう書いてあった。
「失明した者からの視点は、『ぼやけた白世界で深い霧のなかにいる』という感覚である。」
「最後のとき/最初のとき」ソフィ・カル(原美術館)
失明している方々本人に「最後に見たシーンはどういうものでしたか」というとても聞けないようなことを聞き、そのシーンを再現したした写真と合わせて、その失明者とその人が語ったテキストが合わせて展示されている。とても不幸な境遇にぶつかった人々が語るエピソードはどれも重たい。写真が収められたフレームが鉛のような質感だったが、それもその作品のアウトプットによく合致していた。プリントされるサイズも一定ではなく、そのレイアウトも含め実に絶妙で、デザイン能力の高さが伺える。しかし、その内容は繰り返すが重たい。視界に入る外観とその内容のギャップに戸惑う。そして、これがソフィ・カルの真骨頂なのだろう。
そういえば14年前に観た「限局性激痛」に接した時、美術とは何なのか相当考え込むはめになったが、今回もそのあっさりした展示空間とは裏腹に、見るとか見えるとかが何を意味しているのか考え込むことになった。
僕は幸運なことに、パリのポンピドゥー・センターで、ソフィ・カルの大々的な個展を観たことがある。賑わう人々に紛れ、盲目の人に「美のイメージとは何か」と聞き、そのシーンと応えられたそのテキストと、痛ましいその眼を持った方々の写真を観てまわった。曖昧な記憶だが、別の展示では手だけが写されており、その手の稼ぎ出す金額と、その手の持ち主が思うお金のイメージのテキストが提示されていた。僕はフランス語が全く分からないので、並列されている英語を通して感覚的にしか観れなかったが、当然この人の展示は、添えられている言葉が重要なので、今回のように和訳があると、やはりありがたいのだった。
一方、言葉が一切ない映像作品もあった。初めて海を見る人々を捉えたシーンの数々は、実に厳かだった。個人的に相当追い込まれる仕事が最近乱立していて、日中が忙殺される中、こういう決定的なタイミングに接する人々の表情を見ていると、何故か心の余裕が生まれるのだった。庭を見渡す空間では、初めての海と戯れる子供達がはしゃいでおり、どういうわけか救われたような気持ちになった。ただ、これらの映像は全てが、白くフェードアウトすることで終わるのだが、その白が、自分の眼が失明していくようでもあり、どこか怖くもあるのだった。会場には、本当に失明している人もいて、同行者が言葉でその作品を説明していたが、なんとも形容し難い光景で、あまりにも作品の内容とかぶるので、パフォーマンスではないのかと思ったが、見えないという事実を抱えた方々はやはり、見えるとはどういうことなのか知りたいだろうし、しかしその体験は不可能なわけだが、こういう作品を通じて、何かその感覚の一端でも味わってもらえたらとか、他人ながらに思った。自分が普通に行っていることの貴重さを思い知ることになった。

画像:http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/7MLvphyuOE5ifoD0248Q/

そして、初めて海を見た娘。
「失明した者からの視点は、『ぼやけた白世界で深い霧のなかにいる』という感覚である。」
「最後のとき/最初のとき」ソフィ・カル(原美術館)
失明している方々本人に「最後に見たシーンはどういうものでしたか」というとても聞けないようなことを聞き、そのシーンを再現したした写真と合わせて、その失明者とその人が語ったテキストが合わせて展示されている。とても不幸な境遇にぶつかった人々が語るエピソードはどれも重たい。写真が収められたフレームが鉛のような質感だったが、それもその作品のアウトプットによく合致していた。プリントされるサイズも一定ではなく、そのレイアウトも含め実に絶妙で、デザイン能力の高さが伺える。しかし、その内容は繰り返すが重たい。視界に入る外観とその内容のギャップに戸惑う。そして、これがソフィ・カルの真骨頂なのだろう。
そういえば14年前に観た「限局性激痛」に接した時、美術とは何なのか相当考え込むはめになったが、今回もそのあっさりした展示空間とは裏腹に、見るとか見えるとかが何を意味しているのか考え込むことになった。
僕は幸運なことに、パリのポンピドゥー・センターで、ソフィ・カルの大々的な個展を観たことがある。賑わう人々に紛れ、盲目の人に「美のイメージとは何か」と聞き、そのシーンと応えられたそのテキストと、痛ましいその眼を持った方々の写真を観てまわった。曖昧な記憶だが、別の展示では手だけが写されており、その手の稼ぎ出す金額と、その手の持ち主が思うお金のイメージのテキストが提示されていた。僕はフランス語が全く分からないので、並列されている英語を通して感覚的にしか観れなかったが、当然この人の展示は、添えられている言葉が重要なので、今回のように和訳があると、やはりありがたいのだった。
一方、言葉が一切ない映像作品もあった。初めて海を見る人々を捉えたシーンの数々は、実に厳かだった。個人的に相当追い込まれる仕事が最近乱立していて、日中が忙殺される中、こういう決定的なタイミングに接する人々の表情を見ていると、何故か心の余裕が生まれるのだった。庭を見渡す空間では、初めての海と戯れる子供達がはしゃいでおり、どういうわけか救われたような気持ちになった。ただ、これらの映像は全てが、白くフェードアウトすることで終わるのだが、その白が、自分の眼が失明していくようでもあり、どこか怖くもあるのだった。会場には、本当に失明している人もいて、同行者が言葉でその作品を説明していたが、なんとも形容し難い光景で、あまりにも作品の内容とかぶるので、パフォーマンスではないのかと思ったが、見えないという事実を抱えた方々はやはり、見えるとはどういうことなのか知りたいだろうし、しかしその体験は不可能なわけだが、こういう作品を通じて、何かその感覚の一端でも味わってもらえたらとか、他人ながらに思った。自分が普通に行っていることの貴重さを思い知ることになった。

画像:http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/7MLvphyuOE5ifoD0248Q/

そして、初めて海を見た娘。