絶望の詩は人を絶望させません

04 15, 2013
どのような経緯で、その仕事を始めるようになったのか、というきっかけが劇的であれば、その仕事も劇的になるのだろうか。安泰なルートで就職した若者が、先輩社員に懇切丁寧に指導してもらいつつ進める仕事と、夜の街を彷徨いつつ生きる術を独りでつかみ取り、同性愛も含む人間関係を最大限利用し、どん欲に狡猾にその分野のルールを学んだ末に披露する仕事は、レベルが全く違う次元になるのだろうか。

「フランシス・ベイコン」マイケル・ペピアット(新潮社)
まだ途中だけれどこちらの方が、なぜ彼があのような作品を描くに至ったのか、という経緯が腑に落ちた。先日、竹橋であの展示を観て、もっとフランシス・ベイコンを知ろうと思い、彼のインタビュー集である「肉への慈悲」を読んだが、確かに「作品」という、考えればどうとでもなる得体の知れない何かに向かう思考法として読めば、刺激的で的を得ている言葉の数々が羅列され、今後も時々見直すことになるだろうけれど、あのベイコン独特のヤバイ感じに潜む秘密がどこにあるのかは、なかなか見えなかった。思えば、今回の近代美術館の展示でも、代表作であろうTATEの「磔刑の基部の人物像のための三つの習作」とかMoMAの「絵画 1946年」は、さすがに観れないわけで、どことなく良質なベイコン展という感じで、吐き気を伴い体調を崩してしまう大人や、泣き出す子供続出といった狂気じみた展示ではなかった。
僕が初めて彼を知ったのは、美術予備校の資料室で、友人に教えてもらったのがきっかけだったが、あのエイリアンが腹を突き破って出てくるシーンさながらの、口だけのろくろ首的生命体が何やら強烈な赤を背景に蠢いている絵は、実にヤバイ感じで、叫ぶ口の描写は楳図かずおだけかと思っていたうぶな高校生をビビらせるには充分だった。しかしその後、まとまって作品を観る機会がなく、今回の展示は、ほぼ初めて本物の数々を観れるわけで、相当楽しみであった。しかし正直、あの高校生の時に受けたショックはなく、意外にすんなり作品を観れてしまうのだった。

入れなさそうな店というものがある。素人お断りで関係者のみが集まるような、扉も触れないような夜の店に、唐突に引き込まれてしまった感覚が僕のベイコンの印象で、閲覧禁止の本を読むような、興奮と戸惑いを今回も体験したかったのだが、それは願い過ぎだった。とはいえフランシス・ベイコンである、面白くないわけはなく、もう少し勉強しようと思い、その伝記を読み始め、彼の不幸と幸運、その性癖、裕福だった境遇を利用した上流階級での振る舞い方、その逆の世界での彷徨い方、デザイナーとしての思考等々を知るに連れ、ようやく落ち着いてきた。思うのは人間関係の重要さだった。その人生において、誰と出会ったのか、誰と共に時間を過ごしたのかは、個人の人格形成とその人が行う仕事を大きく左右するという、かなり当たり前の事実だった。後はピカソの存在ということになるのだろう。

表面的な外観をとにかく溶かしてしまうようなあの肖像画を観ていると、まどみちおの詩「みているものは、みていないのだ」というフレーズがいつも浮かぶ。人間は何を見るべきなのか、皮を剥いたその本性がどんな姿なのか、それは美しいのか醜いのか。ベイコンの絵を観ていると、ただただ得体が知れない何かに、必死で形を与えようとしている行為が見えてくる。そこには快感とは遠い底抜けの不安が広がる。人間があんな風に感じられることは異常だが、その異常さに潜む現実のもうひとつの姿に、皆惚れ込み共感してしまうのだろう。
ジョン・ローゼンシュタインは「彼は、人生に意味はない、死の後にはなにも残らないと考えている。けれど彼は地獄を、いまここの地獄を信じている」と書いている。一方、先の「肉への慈悲」のインタビューでは、ベイコンはこう応える。「ええ。地獄に落ちたとしても、脱出するチャンスはあると、いつまでも思っているでしょう。きっといつか脱出できると思い続けます。」ミシェル・レリスの言葉が響く「絶望の詩は人を絶望させません。すぐれた作品は、決して人の心をくじきはしません。」
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画像:http://www.tate.org.uk/art/artworks/bacon-three-studies-for-figures-at-the-base-of-a-crucifixion-n06171
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