判別ではなく、間違えようがない何か

03 14, 2013
妻が出場する名古屋のマラソン大会で、その姿を撮影すべく「ゴールまであと50m」という看板の辺りで、僕は人だかりに紛れ娘を肩車しカメラを抱え待っていた。女性ランナーしかいない大会なので、似たようなファッションが多く、見つかるか心配だった。帽子でサングラス、疲労困憊&前傾姿勢で走る方々の中、もし同じように妻が走っていたら、それが本人なのかどうか判別できる自信は揺らぐ一方だった。

ゴールまであと50mという地点は、もう名古屋ドームの中にいる状況で、ランナー達は、42.195kmのラスト約100mでドームに入ってくる。つまり僕の視線の先、50m先の入り口からは続々と逆光のランナー達が現れる。自然光からドームのライトに光が切り替わるタイミングで選手達が登場するシーンは、劇的でかっこいいのだが、そのタイミングでランナーが誰なのか初めて判別できるので、目測30mくらいからようやく顔が認識できる状態だった。これはランナーを撮影するにしては相当な悪条件で、マトモな写真を撮るのは、まず無理だと思った。しかし、場所を変える隙間など、どこにもなく、僕はここでふんばるしかないのだった。

群衆から個人を見分ける距離は、人それぞれだろうが、たぶんそこには曖昧なレイヤーがある。向こう側に知人がいるとは知らずに横断歩道を渡っていて「あれ!○○さんだ」と気付くその距離が、群衆から個人へ、認識の視界が切り替わる層に触れた瞬間だろう。遠くから知人が歩いて来るのは分かっている、しかしそこから「おはよう」とか、声をかけようと思う距離は、また別のレイヤーが存在しており、そういう階層は様々な状況で変化しつつ、私達を取り巻いている。撮影しようと周囲を見回している時は、その注目範囲は異常に広がっているだろうし、大至急ある場所へ移動している時、周囲に目を向けることはほとんどない。それは、出来る限り無駄な情報を遮断したい時だ。(事故が起きやすそうだ)
裸のターミネーターが、周囲の男を見回し、自分のサイズに合った服を着ているか否かを判断するシーンがあって、あの「あれか、あれか」という注目の移行が、今回僕が次々ドームに入ってくるシルエットを追う感覚と似ていて、つまり僕はあの時に限り、向こう50〜30m地点の層だけに注目する人間になっていた。

そして妻は現れた。感覚的には飛び出して来た。という表現が近い。たぶん注目していた距離より近い地点で目に入った人間は、それ以前の姿に気付なかった分、急に飛び出して来たように見えたのだと思う。こつ然と現れたようだった。もちろんシャッターをあわてて押したがブレブレで、「がんばれー」とか言う声援を送る頃には、とっくに後ろ姿になっていた。手を振ってくれたので、向こうも気付いたらしいが、妻には僕らがどう見えたのか、気になるところだ。走ってくる人間の注目視点の層が何処にあるのか分からないし、フルマラソンのゴール間際というのは、また特殊な状況だろう。それなりに神がかった視点になるのかもしれない。妻が、応援する群衆の中から家族を見分けたところを見ると、FINISH看板だけを見ていたわけでもなさそうだ。ただ、毎日一緒に暮らしている人間の顔という記号性は、明らかに他の何かより、強いメッセージを帯びるのだろう。少なくとも僕の場合、ターミネーターが「合致」として認識するような感じではなかった。その姿は、探すのではなく、唐突に目に飛び込むもの、判別ではなく、間違えようがない何かなのだった。
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