深層と表層 もしくは オタクとギャル

02 13, 2013
「ギャル」のガングロファッションが今もあるのか知らないが、あのインパクトは、そのガングロ化粧の基本スタイルを踏襲しつつ、 そのフレーム内での競争を激化させたため、かの過剰な表層を生み出してしまった。そして、彼女達が使用する言語「ギャル語」もその化粧同様、一般人から遠く離れ、およそ日本語とは思えない進化を遂げている。例えば「盛る(化粧する)」などは、それを基本形にガンやガツを加え「ガン盛り」「ガツ盛り」といった微妙な使い分けがなされる。その化粧への気合いの差がそこにはあるのだろう。また「ウケる」等の相づち表現として使用される言語の数々は、その情報伝達の意味すら曖昧で、その場の空気の存続だけにあるらしい。斎藤環はそれを「毛づくろい的会話」と言っているが、その「会話をするための会話」こそが、お互いの関係をまろやかにすべく重要とのこと。確かに男は会話において早急に結論を求めたがる。これでは円満な空気を維持することができない。まあ仕事に円満な空気が必要か、という問題はあるが。

一方「オタク」と称される方々は、そのギャル語とは全く異なる「オタク言語」で話す。ただその言語は、ほとんど進化しない。オタク達は、素の状態での情緒的コミュニケーションが苦手なため、その時の気持ちを自分の言葉で表現せずに、有名主人公の台詞で済ますからだ。例えば、出発する際「○○行きまーす」とか、光がまぶしければ「うぉっまぶしっ」さらにまぶしければ「目が!目がぁ!」 と叫び、料理が美味しければ「むほぅ」と、とりあえず言っておく。その感情表現において、どちらにオリジナリティーがあるかは明白で、ギャル達の集団的想像力の見事さには敬服するしかない。

ギャルは軽やかに表層をすべり続け、状況を敏感に察知し自分を変化させていく。逆に、オタクはじっくりその深層を掘り続け、状況の変化に自分を合わせない。その対極的な在り方は、交差することなく離れていくだけだが、少なくとも自分はどちら側か、つまり「ギャル系」か「オタク系」か、という線引きはできそうである。

しかし、もうひとつ「ヤンキー系」というエリアが存在する。僕は調布に住んでいるが、地元のお祭り行事に参加すると、いわゆる「ヤンキー系」の方々を多く見かける。その元EXILEのような雰囲気は、見事な統一感となって外見に表れる。そこにはひとつの様式美があり、そのフレーム内で個々の美意識が微妙な差異となってそれぞれのオリジナリティーに繋がっている。同じようで同じでない個性がそこにはある。「ヤンキー」と「ギャル」の違いは何か、さらにやっかいなことに「ギャル男」もいるようなので「ヤンキー」の定義はなかなか難しい。ウィキペディアでは「ヤンキーとは、本来はアメリカ人を指すYankeeが語源。日本では、「周囲を威嚇するような強そうな格好をして、仲間から一目おかれたい」という少年少女。また、それら少年少女のファッション傾向や消費傾向、ライフスタイルを指す場合もある。口伝えで広まった言葉のため、本来の意味を知らない多くの人々によってあいまいな定義のまま使用されることが多く、「非行少年(不良)」「チンピラ」「不良軍団」など多くの意味で使用される。」とある。本来の意味が、アメリカ人を指すというところが微妙だ。

「世界が土曜の夜の夢なら」斎藤環(角川書店)
日本文化は、ハードで保守的な「深層」と流動的な「表層」の二重構造をもっている。日本人はあらゆる外来文化をまず表層で受け止め、その影響を吸収しながら表層を変化させる。そしてこの受容的な表層が、外来文化からその奥にある深層を守るべく機能する。こうして日本文化の深層は変わらずに守られてきた。というのが、丸山眞男の「古層論」である。これを著者は「構造」と「形態」に分け、日本文化の雑食性を説明する。つまり、変化する表層と不変の深層というよりは、形態の流動性と構造の同一性という対比の方が、今の日本を説明しやすいのだと言う。変わりつつ変わらない、変わらないために変化を続ける、という思考は、福岡伸一の「動的平衡」にも繋がりそうだ。生きる根本は同じなのだろうか。

ウィキペディアには「クラシックヤンキー」から「ヒップホップヤンキー」への経緯なども書かれている。ここには確かにアメリカの影響もあり、その流れを受けて表層を変化させ続けたヤンキースタイルが見える。しかし、著者はその外見ではなく、その内面(精神)に注目する。ヤンキー精神が、日本古来のそれといかに近いものであるかが分析される。ただこの場合「ツヨメでチャラくてオラオラで」というあの感じより も、いかに本宮ひろ志の漫画に出てきそうか、という「気合いの入り方」で決められる。そういう「個人の美意識 にひそむヤンキー性(気合い)」は皆少なからず持っているのかもしれない。スジを通すとか、義理人情を重んじる、という美しい日本人の在り方は、誰もが信じて疑わない美学だろう。ただ、その思考は「今」しか見ていないと著者は言う。ザックリまとめてしまうと、彼らの持つ美学や気合いは、生き方のスタイルに固執するあまり、ゴールが見えない。成功したヤンキー達は「夢を諦めるな、気合いだ」と叫ぶが、その夢はあまりに抽象的すぎる。評価基準がその所属団体内での共通理念だけでは、次の進化に繋がらない。必要なものは「新しい理念」であり、過去のイカした前例ではない。ということになる。

冒頭のギャルとオタクの話に戻る。ギャルが年齢と「経験」を重ね、いつしかヤンキーになり、子供が出来き、気合いで世の中を乗り切る時、オタク達は、ひたすら年齢と「知識」をため続ける。そしてその知識はいつしか外へ向けて溢れ出す。足りないものは、お互いの経験と知識であろう。世の中は様々なバランスで成り立っている。そういえば「ギャルオタ」という言葉もあった。それは繋がるべくして繋がった、ひとつの進化なのだろうか。
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