女性が鎧を纏って強くなった時
02 02, 2013
澤田知子と志賀理江子の展示を観た。
二人の作品には何の共通点もないが、同じ建物内で連続して接したことで、妙に比較することになった。澤田は77年に生まれ、04年に木村伊兵衛賞を受賞し、主にセルフポートレイトの手法を用いた作品を発表している。対して志賀は、80年に生まれ、08年に木村伊兵衛賞を受賞しており、作風は撮影したプリントを加工し、それを再び撮影してイメージを具現化していく幻想的な作品で知られている。実力充分な二人である。
澤田の作品にはほとんど澤田本人が登場する。自分を化粧、衣装で変身させ、その分人のようなそれぞれの自分を均一に並べる。個性的なキャラクターを生かした正統派な現代アートである。対して志賀の作品は、どれも実に生々しい。子供がみたら怯えるような、ダークサイド的世界観に満たされている。僕は、この二人の作家を特に注目しているわけではないが、様々な企画展にこの二人はよく登場するので、たびたび目にする。そして、いつも何かを過剰に暴走させていく印象を受ける。今回もそれは留まる気配がない。
「DOMANI・明日展 2013」澤田知子他「ARTIST FILE 2013」志賀理江子他(国立新美術館)
以前の澤田は作品の中で、設定人物にあわせた表情を演技していたと思うが、最近は外見だけを変えてはいるものの、その差はますます微妙なものになり「何か文句ありますか」という挑むような深刻な表情は、気味が悪い。それを均一で整然とした空間で連続して見ていくことが、澤田作品を観る体験といえる。以前、タナカノリユキが沢尻エリカをモデルにして、100人の沢尻を作り一同に並べる作品を発表していたが、作者とモデルの着せ替え遊戯を見せられただけで、なんの毒もなくサラサラしていた。やはり、澤田の独特なキャラが放つ「ヤバさ」こそが、澤田作品を支えている肝なのだろう。
ただ、今回の展示には新たな展開があった。ある商品がウォーホルのキャンベルスープのごとくズラりと並んでいる。きっちりくっきり撮影されたその製品が整然と並ぶ様は、爽快な空気に満ちていて、その迷いのない美しさに目を奪われた。パッケージデザインに使用されている言語だけが際立ち「差異」という意味を改めて考えることができた。「この人はこういう作品だろう」という予想を裏切られる快感は、作者の進化を思わせるに充分だった。
続けて、別フロアにあった別の企画展で志賀作品を観た。この人は、写真を沢田のようにきっちり展示しない。僕はその展示手法にあまり共感したことがなく、なぜこのような見せ方になるのか常々疑問だった。もちろん今回も普通ではない。しかし、その新しい見せ方は実に衝撃的で、ようやく志賀世界の一端が理解できた。そのイメージにダイブするような空間に踏み込んだ人は皆戸惑っていたが「展示とはこういうものだ」という既成フレームを見事にぶち壊しており、やられた感が喜びに変わる経験がそこにはあった。少々のほころびなど彼女にとっては、大した問題ではないのだろう。その心意気が素晴らしいと思った。
僕はデザインを勉強してしまった男だからか「女性のアバウトさ」が時々気になるのだが、細かな体裁を整えて喜ぶのは男の悪い癖だ。その企画展には男性作家もいたが、そのメランコリックな優しさと共にあるスッキリした作品群が悪いわけではないが、あの志賀作品は僕にとって重要な体験になった。
何故そう過剰反応したのかには理由がある。以前読んだ澤田の「産業、社会と領域について」というテキストに僕が共感してしまったからで、以下はその要約。
「これまで現代における政治は、発展、向上、そして拡大を掲げてきた。しかし、実際に産業、社会と領域が造り出したものは分離、憂鬱、そして破壊であった。そしてまたアイデンティティの喪失という問題も生み出した。そのような世の中で女性は生きていく為に鎧を着て戦うことになった。もともと鎧は戦うための装備と同時に、その装飾の違いによって、権威や権力を示すものでもあった。女性が鎧を纏うことは、産業を発達させて様々な意味、分野において領域を広げ、社会向上を掲げて進んできた先進国の象徴とも言える。陰陽のバランスを保ちながら成り立っているこの世の全ては繋がり影響しあっている。女性が鎧を纏って強くなった時、同時に男性が弱くなることはバランスをとるために当然起こることが想像できる。
女性が自分や愛する人のために着飾ることは大地に花が咲くのと同じことだと思う。しかし女性が鎧を纏って男性的になり、母なる女性が女性性を失っていくことは、私達が母なる大地である自然、そして地球をも奪ったことにある。そこから全ての問題が生まれてきたとも考えられる。しかしこの世の全ては表と裏、男と女、というように陰陽の関係によってバランスを保っている。だから必ず問題と見えることにも裏の面があり、その問題に気づくことが重要で、気がついたらそれを修正することもできる。」
澤田の展示は3日までだが、志賀の作品はまだ観れる。あの衝撃は写真集では絶対に分からない。一見の価値があると思う。

画像:http://www.gmprojects.jp/projects/20121107/

画像:http://5election.com/2010/12/28/tomoko-sawada-澤田知子/
二人の作品には何の共通点もないが、同じ建物内で連続して接したことで、妙に比較することになった。澤田は77年に生まれ、04年に木村伊兵衛賞を受賞し、主にセルフポートレイトの手法を用いた作品を発表している。対して志賀は、80年に生まれ、08年に木村伊兵衛賞を受賞しており、作風は撮影したプリントを加工し、それを再び撮影してイメージを具現化していく幻想的な作品で知られている。実力充分な二人である。
澤田の作品にはほとんど澤田本人が登場する。自分を化粧、衣装で変身させ、その分人のようなそれぞれの自分を均一に並べる。個性的なキャラクターを生かした正統派な現代アートである。対して志賀の作品は、どれも実に生々しい。子供がみたら怯えるような、ダークサイド的世界観に満たされている。僕は、この二人の作家を特に注目しているわけではないが、様々な企画展にこの二人はよく登場するので、たびたび目にする。そして、いつも何かを過剰に暴走させていく印象を受ける。今回もそれは留まる気配がない。
「DOMANI・明日展 2013」澤田知子他「ARTIST FILE 2013」志賀理江子他(国立新美術館)
以前の澤田は作品の中で、設定人物にあわせた表情を演技していたと思うが、最近は外見だけを変えてはいるものの、その差はますます微妙なものになり「何か文句ありますか」という挑むような深刻な表情は、気味が悪い。それを均一で整然とした空間で連続して見ていくことが、澤田作品を観る体験といえる。以前、タナカノリユキが沢尻エリカをモデルにして、100人の沢尻を作り一同に並べる作品を発表していたが、作者とモデルの着せ替え遊戯を見せられただけで、なんの毒もなくサラサラしていた。やはり、澤田の独特なキャラが放つ「ヤバさ」こそが、澤田作品を支えている肝なのだろう。
ただ、今回の展示には新たな展開があった。ある商品がウォーホルのキャンベルスープのごとくズラりと並んでいる。きっちりくっきり撮影されたその製品が整然と並ぶ様は、爽快な空気に満ちていて、その迷いのない美しさに目を奪われた。パッケージデザインに使用されている言語だけが際立ち「差異」という意味を改めて考えることができた。「この人はこういう作品だろう」という予想を裏切られる快感は、作者の進化を思わせるに充分だった。
続けて、別フロアにあった別の企画展で志賀作品を観た。この人は、写真を沢田のようにきっちり展示しない。僕はその展示手法にあまり共感したことがなく、なぜこのような見せ方になるのか常々疑問だった。もちろん今回も普通ではない。しかし、その新しい見せ方は実に衝撃的で、ようやく志賀世界の一端が理解できた。そのイメージにダイブするような空間に踏み込んだ人は皆戸惑っていたが「展示とはこういうものだ」という既成フレームを見事にぶち壊しており、やられた感が喜びに変わる経験がそこにはあった。少々のほころびなど彼女にとっては、大した問題ではないのだろう。その心意気が素晴らしいと思った。
僕はデザインを勉強してしまった男だからか「女性のアバウトさ」が時々気になるのだが、細かな体裁を整えて喜ぶのは男の悪い癖だ。その企画展には男性作家もいたが、そのメランコリックな優しさと共にあるスッキリした作品群が悪いわけではないが、あの志賀作品は僕にとって重要な体験になった。
何故そう過剰反応したのかには理由がある。以前読んだ澤田の「産業、社会と領域について」というテキストに僕が共感してしまったからで、以下はその要約。
「これまで現代における政治は、発展、向上、そして拡大を掲げてきた。しかし、実際に産業、社会と領域が造り出したものは分離、憂鬱、そして破壊であった。そしてまたアイデンティティの喪失という問題も生み出した。そのような世の中で女性は生きていく為に鎧を着て戦うことになった。もともと鎧は戦うための装備と同時に、その装飾の違いによって、権威や権力を示すものでもあった。女性が鎧を纏うことは、産業を発達させて様々な意味、分野において領域を広げ、社会向上を掲げて進んできた先進国の象徴とも言える。陰陽のバランスを保ちながら成り立っているこの世の全ては繋がり影響しあっている。女性が鎧を纏って強くなった時、同時に男性が弱くなることはバランスをとるために当然起こることが想像できる。
女性が自分や愛する人のために着飾ることは大地に花が咲くのと同じことだと思う。しかし女性が鎧を纏って男性的になり、母なる女性が女性性を失っていくことは、私達が母なる大地である自然、そして地球をも奪ったことにある。そこから全ての問題が生まれてきたとも考えられる。しかしこの世の全ては表と裏、男と女、というように陰陽の関係によってバランスを保っている。だから必ず問題と見えることにも裏の面があり、その問題に気づくことが重要で、気がついたらそれを修正することもできる。」
澤田の展示は3日までだが、志賀の作品はまだ観れる。あの衝撃は写真集では絶対に分からない。一見の価値があると思う。

画像:http://www.gmprojects.jp/projects/20121107/

画像:http://5election.com/2010/12/28/tomoko-sawada-澤田知子/