社会を変える行為
01 22, 2013
生き方のバリエーションを思った。その昔、普通は嫌だとかなんとか偉そうに親に反抗していたが、そうして今に至る自分が、とても普通に思えた。確かに彼のように、その境遇に対していちいち「何故?」とは考えてこなかった。たとえ生理的に受けつけなくても、耐えれることは耐えてしまった。
京都精華大学からの講演依頼で提出したプロフィールが、展示のほぼ一発目だったが、その見事さに、まずぶっ飛んだ。大抵の人は、自分の過去をあそこまで微に入り細にわたり覚えていない。その歴史からすると、かなり出来る子だったようだ。オール5をとることに興奮し、先生に「どうすれば5以上を取れるのか」と質問するあたり普通ではない。
つまらぬ例だが、僕は義務教育期間中真面目に勉強したが、成績は中くらいだった。当時の僕は、先生や親からの指示に疑問がなかった。たまに反発してもそれは怠けへの欲求であり、システムへの抗議とかではない。幼少時の僕は、明らかな意志の欠落と共に生きていた。当然そうなると当時の記憶は断片的で、彼のように幼き頃のエピソードを織り込んだ魅力的なプロフィールを僕は描けない。意志がなければ記憶も生まれない。
しかし彼はそうではない、成績はオール5で、なおかつ転校初日に人気者になり、あげく学級委員になるキャラである。「理解できないことなどない」という思いが、当時既に形成されたのかもしれない。その破天荒な発想力や、いちいち法律に立ち返る行動姿勢は「何か言われても、それに対する反撃など何種類もあるぜ」というノリノリの態度が見え隠れしている。
「新政府展」坂口恭平(ワタリウム美術館)
全てがフリーハンドである。フレームというものがほとんどなく、枠にはめられることを嫌う彼の思考がよくわかる。壁に直接様々な言葉等が書かれており、そのほとんどが混沌としつつ細かい。緻密系ドローイングも何点かあるが、展示空間と同じ構成を感じる。全体を考えてから書き始めるのではなく、大まかなポイントを決めたら、いきなり端からギチギチに描き込んでいくのではないかと見受けられた。そこには坂口が尊敬する、河川敷等に段ボールやブルーシートと共に住んでいる方々の生き方が、そのまま生かされているように感じた。つまり、成り行きと共に構築されていく日常と同じで、全ては部分から始まり、その集積で全体が出来上がるのだろう。そこに整理という概念がない分、その全てが重要なのだ、どれも削除できない感じで、そういう意味では、とても濃密な空間であった。アートとして充分注目されるだろうことは理解できた。事実、いつも閑散としているこの美術館に、多くの若者が訪れていた。
そして、彼の活動はアートだけではない。
「独立国家のつくりかた」坂口恭平(講談社現代新書)
自分の職業がわかりません、と始まる本書は、のっけから様々な分野で活躍する彼の履歴が披露される。早稲田で建築を学び、卒論が写真集として出版され、現代美術作家、作家、噺家、音楽家として活動。さらに、最大の肩書きは「新政府」発足の総理大臣というものだ。
3.11後もう政府は機能していないと見限った彼は、熊本で独立国家を作る。悪い何かをどうにかしようではなく、さっさと自分で新たに作るという行動力は見事だ。その政府の運営体系をここで説明する気はないが、僕が思ったのは、とにかく彼は、人付き合いが無類に好きなのだろう。他者が持つ自分へのシールド解除能力がずば抜けている。
特有の「0円でどう生活していくか」という彼の持論は、人付き合い無しには不可能である。都市の余剰物で暮らしを成立させることに関しては、賛否が別れるところだが、それぞれの人が得意なことを他者に提供し、皆が個々の役割を持つことで、存在意義その他の充実を得る、という部分への否定意見は少なそうだ。それは、いわゆる物々交換ではなく「交易」というらしい。つまり、そこに人間の感情や知性などの「態度」が交じることが重要とのこと、ただ、そういう人間関係は、相当スマートなコミュニケーション能力が必要で、苦手な人も多かろう。(だからお金があるのだし)どうなのか。
彼の基本スタンスは、やはり芸術がベースなのだろう。経済(ECONOMICS)を「OKIOS」と「NOMOS」という古代ギリシャ語に分割し、「OKIOS」は家計、住む場所、関係を持つ場所。「NOMOS」は習慣や法律、社会的道徳の在り方を示すとしている。つまり「経済」とは「家計のやりくり」であり「住まいはどういうものか」「住処と共同体はいかに在るべきか」を考え実践する行為だ、としている。それは「社会を変える行為」であり、それを坂口は芸術と定義している。なるほど、と思う。
しかし、ここまで感心しつつも素直になれない自分がいるのだった。世にいる人々が、皆あなたのように幼少時から明確な意志を持った「出来る人」ではないのだ。「新政府」の一番の目標は「自殺者ゼロの国」だそうだ。「人には皆あきらかな使命がある、あなたは何大臣ですか(何ができますか)」という問いかけに対し「私は自分がわからない」という人はどうすればいいのか。「新政府」の今後は知る由もないが、その在り方は、アートであれば刺激満載だが、その極端さに戸惑う普通の人もいよう。しかし、今の危機的状況だけは確かだ。本書に書かれた、写真集出版への経緯やその後の彼の行動を知ると、僕はひたすら自分の行動力のなさ、意志の薄さ、そして臆病さを自覚せずにはいられなかった。それなりに「考えて」生きてきたつもりだったが、到底及ばない。少なくともそういう人間は、彼を批判すべきではない。

画像:http://www.watarium.co.jp/exhibition/index.html
京都精華大学からの講演依頼で提出したプロフィールが、展示のほぼ一発目だったが、その見事さに、まずぶっ飛んだ。大抵の人は、自分の過去をあそこまで微に入り細にわたり覚えていない。その歴史からすると、かなり出来る子だったようだ。オール5をとることに興奮し、先生に「どうすれば5以上を取れるのか」と質問するあたり普通ではない。
つまらぬ例だが、僕は義務教育期間中真面目に勉強したが、成績は中くらいだった。当時の僕は、先生や親からの指示に疑問がなかった。たまに反発してもそれは怠けへの欲求であり、システムへの抗議とかではない。幼少時の僕は、明らかな意志の欠落と共に生きていた。当然そうなると当時の記憶は断片的で、彼のように幼き頃のエピソードを織り込んだ魅力的なプロフィールを僕は描けない。意志がなければ記憶も生まれない。
しかし彼はそうではない、成績はオール5で、なおかつ転校初日に人気者になり、あげく学級委員になるキャラである。「理解できないことなどない」という思いが、当時既に形成されたのかもしれない。その破天荒な発想力や、いちいち法律に立ち返る行動姿勢は「何か言われても、それに対する反撃など何種類もあるぜ」というノリノリの態度が見え隠れしている。
「新政府展」坂口恭平(ワタリウム美術館)
全てがフリーハンドである。フレームというものがほとんどなく、枠にはめられることを嫌う彼の思考がよくわかる。壁に直接様々な言葉等が書かれており、そのほとんどが混沌としつつ細かい。緻密系ドローイングも何点かあるが、展示空間と同じ構成を感じる。全体を考えてから書き始めるのではなく、大まかなポイントを決めたら、いきなり端からギチギチに描き込んでいくのではないかと見受けられた。そこには坂口が尊敬する、河川敷等に段ボールやブルーシートと共に住んでいる方々の生き方が、そのまま生かされているように感じた。つまり、成り行きと共に構築されていく日常と同じで、全ては部分から始まり、その集積で全体が出来上がるのだろう。そこに整理という概念がない分、その全てが重要なのだ、どれも削除できない感じで、そういう意味では、とても濃密な空間であった。アートとして充分注目されるだろうことは理解できた。事実、いつも閑散としているこの美術館に、多くの若者が訪れていた。
そして、彼の活動はアートだけではない。
「独立国家のつくりかた」坂口恭平(講談社現代新書)
自分の職業がわかりません、と始まる本書は、のっけから様々な分野で活躍する彼の履歴が披露される。早稲田で建築を学び、卒論が写真集として出版され、現代美術作家、作家、噺家、音楽家として活動。さらに、最大の肩書きは「新政府」発足の総理大臣というものだ。
3.11後もう政府は機能していないと見限った彼は、熊本で独立国家を作る。悪い何かをどうにかしようではなく、さっさと自分で新たに作るという行動力は見事だ。その政府の運営体系をここで説明する気はないが、僕が思ったのは、とにかく彼は、人付き合いが無類に好きなのだろう。他者が持つ自分へのシールド解除能力がずば抜けている。
特有の「0円でどう生活していくか」という彼の持論は、人付き合い無しには不可能である。都市の余剰物で暮らしを成立させることに関しては、賛否が別れるところだが、それぞれの人が得意なことを他者に提供し、皆が個々の役割を持つことで、存在意義その他の充実を得る、という部分への否定意見は少なそうだ。それは、いわゆる物々交換ではなく「交易」というらしい。つまり、そこに人間の感情や知性などの「態度」が交じることが重要とのこと、ただ、そういう人間関係は、相当スマートなコミュニケーション能力が必要で、苦手な人も多かろう。(だからお金があるのだし)どうなのか。
彼の基本スタンスは、やはり芸術がベースなのだろう。経済(ECONOMICS)を「OKIOS」と「NOMOS」という古代ギリシャ語に分割し、「OKIOS」は家計、住む場所、関係を持つ場所。「NOMOS」は習慣や法律、社会的道徳の在り方を示すとしている。つまり「経済」とは「家計のやりくり」であり「住まいはどういうものか」「住処と共同体はいかに在るべきか」を考え実践する行為だ、としている。それは「社会を変える行為」であり、それを坂口は芸術と定義している。なるほど、と思う。
しかし、ここまで感心しつつも素直になれない自分がいるのだった。世にいる人々が、皆あなたのように幼少時から明確な意志を持った「出来る人」ではないのだ。「新政府」の一番の目標は「自殺者ゼロの国」だそうだ。「人には皆あきらかな使命がある、あなたは何大臣ですか(何ができますか)」という問いかけに対し「私は自分がわからない」という人はどうすればいいのか。「新政府」の今後は知る由もないが、その在り方は、アートであれば刺激満載だが、その極端さに戸惑う普通の人もいよう。しかし、今の危機的状況だけは確かだ。本書に書かれた、写真集出版への経緯やその後の彼の行動を知ると、僕はひたすら自分の行動力のなさ、意志の薄さ、そして臆病さを自覚せずにはいられなかった。それなりに「考えて」生きてきたつもりだったが、到底及ばない。少なくともそういう人間は、彼を批判すべきではない。

画像:http://www.watarium.co.jp/exhibition/index.html