幸せジャンキー

07 10, 2010
社会的知能の発達は、嘘をつく能力と嘘を見抜く能力が絡むことでエスカレートした。例えばサルはライバルを欺き、群れでの立場を有利にすべく巧妙に立ち回ることで、知能を進化させた。その最高到達点が人間である。我々が様々に営む生活の原点に、その知能の発達があり、もちろん様々な芸術もそこから派生したものだが、その発端を辿ることで見える景色は、相手を騙す邪悪な行為であったことを忘れてはならない。
「哲学者とオオカミ」マーク・ローランス(白水社)

人間嫌いな哲学者が、オオカミと生活を共にすることで思い知る、人間の卑しいサル的な部分を暴き、いかにオオカミが美しい存在であるかを綴っている。サルと同じ群れで生活するオオカミが、サル的な進化をしなかった謎は、著者の考察はあるものの完全には解けないが、裏切りと無縁な潔いオオカミの生き方からは、多くの示唆を受ける。特に人間を幸せジャンキーと捉え、幸福の意味を考えず、ただその感情に従い盲目的に「幸せ」を追い求める行為を、突き放した視点で記述する部分が痛快だった。また最高の瞬間とは何かを考察する場面では、ある人間が最も良い状態である時、その本人が最も高揚している可能性は少なく、著者はむしろ逆だと主張する。つまり本人が最も苦しい時(あらゆる幸運、策略、知恵が尽き果てた裸の自分になる時)に人間は最良の状態(最高の瞬間)になるらしい。この最良という言葉が何を意味しているかだが、僕が思うに欲望や邪悪さからかけ離れた、慎ましい状態ということのようだ。この著者の場合、長年一緒だったオオカミを埋葬する時が一番苦しかったらしいのだが、もし神から「人生で何を望むか書きなさい」と紙とペンを渡されたとして、一番まともなことを書けるとしたら、あの時以外ないと彼は語っている。

先日再び娘がいなくなり、警察も登場するという事件があったのだが、確かにこの時、僕は娘の無事だけを祈っていた。行儀の悪さや過剰ないたずらを許容しようと思った。もちろんその時、大金獲得やコンペの勝利願望など消し飛んでおり、自分を優先する卑しい心は霧散していた。そして娘が無事発見された数日後、宝くじのハズレを確認した際、あの時の崇高な自分が既にいないことも同時に確認できたのだった。
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