妻を撮る
01 08, 2013
妻を撮影し続け、その妻が精神に異常をきたし、その身を投げた直後の姿までをも写した写真家が古屋誠一である。彼はその後、妻との時間を編纂し続け、今までに計9冊の写真集を出している。古屋ほどではないにしろ、身内を撮る写真家は多い。特に家族は自分と距離感が近いし、自分に向けられたその表情や姿は、他人のそれとは大きく異なり、写真の強度も増すだろう、確かにその意図はよくわかる。
しかし、僕も娘の写真は気がふれたように撮っているが、作品として発表しようとは思わない。また、妻をそこまで執拗に撮影したこともない。たまにカメラを向けると、なんとなく迷惑そうであり、また厳しくチェックもされる。そして、いかにその写真が間違っているかを細かに指摘され、否定される。もし妻を写真作品として発表する方向に僕が動き出したら、間違いなくあらゆる手段を駆使して阻止されよう。それは実にシリアスな問題であって、そこに笑いは全くない。
もし自分が写され、作品化されることを考えたら、それは確かに困惑に値する。アートが自分自身をどこまでさらけ出せるかが勝負なのはわかるが、それはあくまで概念や他者の問題であって、それが自分の外見に向けられると、突如話は変わる。特にその素顔をさらせとなると、勘弁してよと思う人が多いのではなかろうか。
写真家の夫に撮られた妻は、古屋の「クリスティーネ」やスティーグリッツの「ジョージア・オキーフ」やフリードランダーの「マリア」などが思い浮かぶが、皆総じてもの凄い美人である。幼少の頃より目立ったであろうその容姿を持った自身の外見に対し、相当な自意識があったと思われる。美しいと言われることにも慣れていただろうし、自分にカメラが向けられることも仕方なさとして受け入れていたのかもしれない。さらに皆そろってヌードを撮られているが、そこまで完璧なスタイルであれば、なんとなくその気持ちもわからないではない。いや、やはりわからない。
「メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年」小林紀晴(集英社)
著者は何故、古屋がクリスティーネに拘り、何度も何度も写真集を作り直し発表するのかを探るべく、彼に長きに渡り接触し取材する。その期間中もクリスティーネは写真集になり、世にさらされる。正直胸が痛くなる。残された息子や母親の気持ちを考えると、正気とは思えないが、それが表現者の宿命や悲しさかもしれないと荒木経惟が話している。しかし、それは正直身勝手な言い逃れにしか聞こえない。芸術が体裁ではなく、その個々人の内面へ向けて膜を突き破りつつ進まねばならないことはわかるが、そこには「範囲」というものがあると思う。もちろん古屋が楽しく作業しているわけではなく、絶望と共にその編集作業があることは想像に難くない。しかし、そうまでする理由はやはり理解できない。
スーザン・ソンタグの「他者の苦痛へのまなざし」で、不幸に目を向けたがる人間の残酷な本能について指摘されているが、人は所詮そういう生き物でしかないのだろうか。そして写真家という人種はそれが異様に顕著になった人間ということなのか。
何故そこまでクリスティーネを撮影したのかを、著者が荒木経惟に質問している。荒木はひとつの解答として、それは「彼女がわからなかったから」ではないかと答えている。結婚し生活を共にしていても、夫婦というものは様々な形があり一様ではない。どうしてもクリスティーネを理解できなかった古屋は、そこをなんとかわかり合いたい思いで、撮影を続けたのではないか、それが彼のクリスティーネへの愛の形だったのではないか、と荒木は話す。しかしその愛は、別の方向に推移し悲劇に繋がってしまった。
そしてもうひとつの解答が、著者自身による「妻を誰かに強く感じさせられるほど、より妻と生きられるのではないか。そうしないことには、生きてこられなかったのではないか」というものだ。写真集は他者がそこに写された対象を強く意識せざるをえない媒体である。以下、その言葉に繋がるまでの文章。(要約)
「誰もが自分自身の姿を思うように撮れない。自分の笑顔、泣き顔、後ろ姿、歩いている姿、寝ている姿といったものを撮れない。自分の生の一瞬を切り取ったり、死の瞬間を撮れない。つまり写真という表現手法は、自分自身の姿を直接写真で描けない。 だから代わりに誰かや何ごとかを撮るしかない。撮りたいという欲求は、最終的には、その一点に収斂される。自分が見たもの、触れたもの、そこにいた誰かをカメラに収めることで、唯一、自分の存在が立ち上がる。他者の力が大きく必要なのだ。
撮りためた写真を、古屋は繰り返し写真集で発表してきた。写真は撮影したときよりもさらに自分自身の存在を際立たせ、何より定着できる。さらに不特定多数の 見知らぬ者たちに観られることによって、その者たちが感情を揺さぶられるほど、妻が観た者たちの身体のなかに入り込む。記憶となって生き続ける」
しかし、その救われなさは徹底的であり、ただただ言葉を失うしかないのだった。

画像:http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201006230286.html
しかし、僕も娘の写真は気がふれたように撮っているが、作品として発表しようとは思わない。また、妻をそこまで執拗に撮影したこともない。たまにカメラを向けると、なんとなく迷惑そうであり、また厳しくチェックもされる。そして、いかにその写真が間違っているかを細かに指摘され、否定される。もし妻を写真作品として発表する方向に僕が動き出したら、間違いなくあらゆる手段を駆使して阻止されよう。それは実にシリアスな問題であって、そこに笑いは全くない。
もし自分が写され、作品化されることを考えたら、それは確かに困惑に値する。アートが自分自身をどこまでさらけ出せるかが勝負なのはわかるが、それはあくまで概念や他者の問題であって、それが自分の外見に向けられると、突如話は変わる。特にその素顔をさらせとなると、勘弁してよと思う人が多いのではなかろうか。
写真家の夫に撮られた妻は、古屋の「クリスティーネ」やスティーグリッツの「ジョージア・オキーフ」やフリードランダーの「マリア」などが思い浮かぶが、皆総じてもの凄い美人である。幼少の頃より目立ったであろうその容姿を持った自身の外見に対し、相当な自意識があったと思われる。美しいと言われることにも慣れていただろうし、自分にカメラが向けられることも仕方なさとして受け入れていたのかもしれない。さらに皆そろってヌードを撮られているが、そこまで完璧なスタイルであれば、なんとなくその気持ちもわからないではない。いや、やはりわからない。
「メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年」小林紀晴(集英社)
著者は何故、古屋がクリスティーネに拘り、何度も何度も写真集を作り直し発表するのかを探るべく、彼に長きに渡り接触し取材する。その期間中もクリスティーネは写真集になり、世にさらされる。正直胸が痛くなる。残された息子や母親の気持ちを考えると、正気とは思えないが、それが表現者の宿命や悲しさかもしれないと荒木経惟が話している。しかし、それは正直身勝手な言い逃れにしか聞こえない。芸術が体裁ではなく、その個々人の内面へ向けて膜を突き破りつつ進まねばならないことはわかるが、そこには「範囲」というものがあると思う。もちろん古屋が楽しく作業しているわけではなく、絶望と共にその編集作業があることは想像に難くない。しかし、そうまでする理由はやはり理解できない。
スーザン・ソンタグの「他者の苦痛へのまなざし」で、不幸に目を向けたがる人間の残酷な本能について指摘されているが、人は所詮そういう生き物でしかないのだろうか。そして写真家という人種はそれが異様に顕著になった人間ということなのか。
何故そこまでクリスティーネを撮影したのかを、著者が荒木経惟に質問している。荒木はひとつの解答として、それは「彼女がわからなかったから」ではないかと答えている。結婚し生活を共にしていても、夫婦というものは様々な形があり一様ではない。どうしてもクリスティーネを理解できなかった古屋は、そこをなんとかわかり合いたい思いで、撮影を続けたのではないか、それが彼のクリスティーネへの愛の形だったのではないか、と荒木は話す。しかしその愛は、別の方向に推移し悲劇に繋がってしまった。
そしてもうひとつの解答が、著者自身による「妻を誰かに強く感じさせられるほど、より妻と生きられるのではないか。そうしないことには、生きてこられなかったのではないか」というものだ。写真集は他者がそこに写された対象を強く意識せざるをえない媒体である。以下、その言葉に繋がるまでの文章。(要約)
「誰もが自分自身の姿を思うように撮れない。自分の笑顔、泣き顔、後ろ姿、歩いている姿、寝ている姿といったものを撮れない。自分の生の一瞬を切り取ったり、死の瞬間を撮れない。つまり写真という表現手法は、自分自身の姿を直接写真で描けない。 だから代わりに誰かや何ごとかを撮るしかない。撮りたいという欲求は、最終的には、その一点に収斂される。自分が見たもの、触れたもの、そこにいた誰かをカメラに収めることで、唯一、自分の存在が立ち上がる。他者の力が大きく必要なのだ。
撮りためた写真を、古屋は繰り返し写真集で発表してきた。写真は撮影したときよりもさらに自分自身の存在を際立たせ、何より定着できる。さらに不特定多数の 見知らぬ者たちに観られることによって、その者たちが感情を揺さぶられるほど、妻が観た者たちの身体のなかに入り込む。記憶となって生き続ける」
しかし、その救われなさは徹底的であり、ただただ言葉を失うしかないのだった。

画像:http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201006230286.html