息子と父親
01 05, 2013
京都に帰省した際、智積院にある障壁画を観に行った。そこには、長谷川等伯とその息子である久蔵の作品が国宝として展示されている。正月の京都は混雑していたが、智積院は閑散としており、さらにその展示空間にはほとんど人がおらず、実に静かだった。
萩耿介の「松林図屏風」で、等伯が秀吉の愛児鶴松を弔うべく建立した、祥雲禅寺の障壁画の仕事を受ける場面がある。狩野派と対立していた等伯は、その一門から何度も苦渋を呑まされていたが、その祥雲禅寺の仕事は、その思いを払拭できる大一番であり、長谷川一派総出で描かれた作品、ということになっていた。そこで等伯の息子である久蔵が担当し、命を懸けて仕上げたのが「桜図」として記述されている。身体が弱く、父親と絵師の在り方に対する考え方も違い、ただ能力だけは逸品だった久蔵が、初めて父親と絵を介して共鳴するシーンがある。それは桜の花びらの描き方の新しい試みであり、どうすれば絵具が盛り上がった状態で固定できるのか、という問題であった。あらゆる方法を試し失敗した久蔵は、そこで初めて父親に相談する。父等伯からのヒントでその「桜図」は完成するわけだが、小説の中で久蔵は、父との合作ともいえる作品を前にして、これまでにない充実感を覚えた、となっている。
息子と父親の関係は、大抵どこかで確執が生まれ、その反発が子を成長させるのが通例だが、その対立が一時であれ氷解し、作品の完成へ向けて問題を共有する場面は、結果はどうあれ、どこか安堵するものがある。最も認めたくない相手が、最も信頼できる人物であった事実に気づく時、息子は父親の大きさを理解するもので、多少のレベル差はあれど、男なら誰でもそういう経験があるものだ。思えば僕もよく父親に助けてもらった。そして不思議なことに、救ってもらった情けなさをあまり感じないのだった。これは何故か父親の場合だけに限る。
小説としては、その最後に松林図が等伯によって描かれるわけで、その心境へ彼がいかに到達したのかがメインなのだろうけれど、松林図は何度か観ていたし、これに関してはまた別の話が必要で、僕としてはその息子久蔵が、等伯のアドバイスで仕上げた(もちろんこれは著者の想像だろう)という「桜図」を観たいと思った。そしてそれは叶わぬことだと諦めていたら、意外に近くにその作品はあった。
確かに桜は盛り上がっていた。その剥がれかけた白の下に、花びらの形態を浮かび上がらせるべく、絵具を盛り上げた形跡がくっきりと現れている。剛毅な幹や空間を横切る枝といった墨のラインと、背景の金を中和させるように白い桜が無数に点在している。これが平坦ではなく、立体として凹凸を持つことで、別の空間が絵に生まれ、淡く在りながらも強い主張が込められた絶妙な効果があった。今、下地のマチエールを作ることは何の目新しさもないが、平面の極みであるあの時代に、この方法を実現させた久蔵と等伯は、明らかに「新しい絵」を考えていたのだろう。貴重な作品を年始に観れた。

画像:http://nagisa-minami.at.webry.info/201004/article_3.htm
色々思うところもあった、咲き誇る花びらと合わせて、散っている花びらも空間に点在させたらとか、様々な想像が膨らんだ。そして細かい写真も撮りたかったが、それは叶わなかった。
萩耿介の「松林図屏風」で、等伯が秀吉の愛児鶴松を弔うべく建立した、祥雲禅寺の障壁画の仕事を受ける場面がある。狩野派と対立していた等伯は、その一門から何度も苦渋を呑まされていたが、その祥雲禅寺の仕事は、その思いを払拭できる大一番であり、長谷川一派総出で描かれた作品、ということになっていた。そこで等伯の息子である久蔵が担当し、命を懸けて仕上げたのが「桜図」として記述されている。身体が弱く、父親と絵師の在り方に対する考え方も違い、ただ能力だけは逸品だった久蔵が、初めて父親と絵を介して共鳴するシーンがある。それは桜の花びらの描き方の新しい試みであり、どうすれば絵具が盛り上がった状態で固定できるのか、という問題であった。あらゆる方法を試し失敗した久蔵は、そこで初めて父親に相談する。父等伯からのヒントでその「桜図」は完成するわけだが、小説の中で久蔵は、父との合作ともいえる作品を前にして、これまでにない充実感を覚えた、となっている。
息子と父親の関係は、大抵どこかで確執が生まれ、その反発が子を成長させるのが通例だが、その対立が一時であれ氷解し、作品の完成へ向けて問題を共有する場面は、結果はどうあれ、どこか安堵するものがある。最も認めたくない相手が、最も信頼できる人物であった事実に気づく時、息子は父親の大きさを理解するもので、多少のレベル差はあれど、男なら誰でもそういう経験があるものだ。思えば僕もよく父親に助けてもらった。そして不思議なことに、救ってもらった情けなさをあまり感じないのだった。これは何故か父親の場合だけに限る。
小説としては、その最後に松林図が等伯によって描かれるわけで、その心境へ彼がいかに到達したのかがメインなのだろうけれど、松林図は何度か観ていたし、これに関してはまた別の話が必要で、僕としてはその息子久蔵が、等伯のアドバイスで仕上げた(もちろんこれは著者の想像だろう)という「桜図」を観たいと思った。そしてそれは叶わぬことだと諦めていたら、意外に近くにその作品はあった。
確かに桜は盛り上がっていた。その剥がれかけた白の下に、花びらの形態を浮かび上がらせるべく、絵具を盛り上げた形跡がくっきりと現れている。剛毅な幹や空間を横切る枝といった墨のラインと、背景の金を中和させるように白い桜が無数に点在している。これが平坦ではなく、立体として凹凸を持つことで、別の空間が絵に生まれ、淡く在りながらも強い主張が込められた絶妙な効果があった。今、下地のマチエールを作ることは何の目新しさもないが、平面の極みであるあの時代に、この方法を実現させた久蔵と等伯は、明らかに「新しい絵」を考えていたのだろう。貴重な作品を年始に観れた。

画像:http://nagisa-minami.at.webry.info/201004/article_3.htm
色々思うところもあった、咲き誇る花びらと合わせて、散っている花びらも空間に点在させたらとか、様々な想像が膨らんだ。そして細かい写真も撮りたかったが、それは叶わなかった。