スナップショット

12 15, 2012
ある場所を限定的に撮影していて、かなりの枚数がたまっているのだが、まだ足りないであろうことはわかっている。それは、ようやく自分の関心がどこにあるのか、それなりに明確になってきたからだ。つまり、あえて何に焦点を合わせるのかを保留にしたまま、僕は撮影を続けていたのだが、ここ最近は同じような写真ばかりを量産する状態になってしまった。しかもそれは、今まであえて避けてきた分野で、そこに足を踏み入れるとやっかいな問題が立ち上がることがもうわかっている。それはつまり「人の顔」である。

街のスナップ写真に人が写っていてその誰かが限定できる場合、その写真を発表していいのかという問題は、多数の本が出版され、写真に関わる人にとっては大きな案件らしい。もちろんその被写体となったご本人から許可を取れていれば苦労はないが、実際それはほとんど不可能であり、だからこそ皆が頭を抱えているのであろう。特にここ最近は「肖像権」という言葉がひとり歩きしてしまい、変なトラブルに巻き込まれないために、後ろ姿にしておくとか、顔を切るトリミングにしたりすることが多い。もちろん群衆的な状態だったり、明らかにパフォーマンスをしているような人であれば問題はないのだろうが、いわゆる道を普通に歩いている誰かひとりを狙うようなスナップは、きっと一番その問題にひっかかりやすい状況にある。

スナップではないが、最近流行っているライアン・マッギンレーの作品※1に写っている人達は、彼の友人や仲間達らしいのだが、あのヌードや奔放な軽やかさは、その独特な連帯感ゆえ表現できるのだろう、見知らぬ他人や雇ったモデルではああはならない。では僕はどうすればよいか。もちろん友人等を集めてさも他人のように歩いてもらい、演出的にその光景を撮るという方法もあるが、明らかにそれはリアルではないし僕自身もそうする気はない。過去、ロベール・ドアノーの「kiss」※2など、そういう偶然のスナップと思われていたものが、実は忠実な演出だった、という例もある。これが偶然か演出かで、その感動は雲泥の差になる。そして今こういうカップルがいたとして「写真撮っていいですか?」と聞くことが、どれだけ不自然で不可能かということだ。

「撮る自由」丹野章(本の泉社)には、大胆にも「見えるものは撮ってもいい」と書かれている。もちろん、撮影禁止と明確にうたわれている場合や、一般的な常識の範囲内での話ではあるが、いわゆる公共の場で行き交う人々は、充分他者に見られてもよい格好をしているわけで、無許可で撮影されてもそれほど困らないのではないか、というのが著者の意見であった。この「パブリックスペースは撮影可で、プライベートスペースでの撮影は不可」という考え方は非常に分かりやすい。しかし、これはあくまで撮影までの話であって、それを公表するとなると、問題はそう簡単ではない。そこを歩いていることが知られることで、被害が及ぶ人がいないとは限らない、細心の注意が必要である。といういつものグレーゾーンに入ってしまう。
そんな中、フリップ・ロルカ・デコルシアが「HEADS」※3という作品を作って発表し、訴えられている。細かい作品の制作方法は書かないが、とにかく道行く人の顔が無許可で撮影され、とことんアップで大判プリントされている。これを肖像権の侵害として告訴した宝石商がいたらしいが、結果はアメリカ憲法修正第1条「表現の自由」を申し立てたデコルシア側の勝利だったようだ。この作品に関しては見るたびに「いいのか?」と思っていただけに知ることができてよかった。

言葉での考察も必要だが、あの作品はどうだったのかという事実があると力強い。「横木安良夫流スナップショット」横木安良夫(えい文庫)に詳しい。この本は、実際、問題になりそうな著者のスナップ写真が相当数載っているので、とても参考になった。上記した「kiss」の裏話も載っている。さらに著者は熱く読者を煽る。物議を醸し出すことを恐れてはならない。全てを受け止める覚悟で、告訴されたら受けて立てばいい、そして負けてもスナップ写真をやめる必要はない。もし本当にそれが正しい表現だと思うなら、また続ければいい、と続く。またスナップ写真が、いかに写真史の中で重要な位置にあったか、過去の巨匠達がいかに工夫して被写体に気づかれないよう、スナップを繰り返してきたかを列挙してくれる。無許可のスナップショットを何故してよいのか「それはスナップショットを実践した偉大な先人たちが、写真の歴史を作ってきたからだ」と著者は答える。

そこに被写体を陥れようという悪意がなければ、その肖像本人にとって、社会生活の上で我慢できる限度を超えていなければ、街を通り過ぎる素晴らしい人々に不快感を与えないよう、敬意を持って撮影し発表するのは決して問題にはならない、ということになろう。「人」が入ると場所は、急激に力を持ち血が通う、そこには明らかな日常が生まれ、小さいながらもドラマが始まる。誰も写っていない写真の良さはもちろんあるが、そこに誰かが入ることで意味が出る写真もある。そんなことばかり最近は考えている。

rym-ph-12-03.jpg
※1画像:http://www.tomiokoyamagallery.com/exhibitions/ryan-mcginley-exhibition-2012/
kiss.jpg
※2画像:http://atxfushigi.exblog.jp/17821700/
diCorcia-Heads.jpg
※3画像:http://josephcha.blogspot.jp/
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2 CommentsPosted in 制作

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2 Comments
By 雅yuki Yoshida12 15, 2012 - URL [ edit ]

わたしは作品として写真を撮ることはもう随分前から無くなってしまったのですが、
かつて生業でアパレルまがいの仕事をしているとき
定点観測で街行く女性のファッションスタイルを撮影し続けた時期がありました。

当然不特定多数を(公表する事はないとは言え)営利目的で撮る訳ですから似たような問題が考えられ、
変質者に見られたり職質でもされて会社へ迷惑がかかるなどの心配から
名刺などの所属先が簡単に割れるような持ち物は身に付けないようにしていたことを思い出しました(笑)

今でこそ雑誌取材で街頭で声掛け撮影するクルーを見かけますが、
もう10年以上前ですので既にそういう企画はありましたがまだ風景としては珍しい時期でした。

そこで私はリスク軽減のため交差点を渡るところを長玉で出来るだけ遠距離撮影していましたが、
必要ないことなのですが知らず知らず写真としてのクオリティを求めるようになっていったのを覚えています。

資料なので写ってさえいればいいので、
作品的質はいらないんですが(^_^;)

まだデジタル移行が本格化する前、
フィルムで一発勝負という条件がそうさせたのかもしれませんが、
被写体となるファッション+身につけている人の表情や動作、髪の流れまで気にしてました。


写真って不思議な吸引力がありますねw

By 任田進一12 16, 2012 - URL [ edit ]

雅yuki Yoshidaさん、お久しぶりです。
コメントありがとうございます。

資料としてであれば、何かあった時でも大丈夫だとは思います。
でも、そういう目的であっても、
「身につけている人の表情や動作、髪の流れまで気にしてました。」
という資料以外のところに気が向いてしまうのが、不思議ですね。
ファッションとは、その部分含めて全体のイメージが重要なのでしょうね。

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