パニック

07 02, 2010
動物園で娘を見失った。躍動していた世界の表情が消えた。
眼を離したのはほんの数秒で、物理的にその時間内で視界から消えるほど3歳児は移動できないので、その謎が理解できず、「あれえあれえ」と阿呆のように繰り返しつぶやき、名前を連呼し捜したが返答も姿もない。煙のように消え去ったとしか思えない状況は、よからぬ妄想が暴走し気が狂わんばかりになった。全力で走り回ったが、自分だけの捜索は非効率と判断し園内放送を依頼すべく、園関係者と思われる人に話しかける。服装や特徴を訪ねられ、ひとことで表現できない複雑な色のシャツやリュックを背負わせていたことを後悔した。ショッキングピンクの帽子とか、レモンイエローのシャツとか着せておくべきだった。複雑系は説明しずらい。知らせを聞いたら妻は発狂するだろう。これが本物のパニックだ。ピンチとはこういうことだ。これに比べれば仕事のプレッシャーなど風船バレーボールみたいだ。「お父さん、そこに座って下さい」と言われ、我に返る。座りたくないので立っていたら、窓の向こうに娘が見えた。娘はパンツの入った小さなリュックを背負い、しょんぼりうつむいていた。その姿は一気にズームレンズで対象が拡大されるように眼に飛び込んできた。離脱していた魂が自分の体に戻り、視界の彩度が上がり、再び世界が動き出した。取り返しのつかない失敗をして時間の逆回りを願ったところ、本当に時間が逆回りしたかのような気分だった。それまで止まっていた汗が吹き出した。
似たような世界が複数存在していて、気付かぬ内に別の世界に移行する話が最近ベストセラーになったが、僕が娘を見失った状態で見ていた世界は、現実感の無いただの周囲だった。存在物の意味が剥ぎ取られ、感情が消滅した人を見るようで、その世界では生きられないと思った。同じ物が全く違う物にしか見えなかった。
15分くらいの別離を体験し再会を果たした娘は、その後も飲めるわけが無い2本目のジュースをねだったり、象を見ながらおしっこを漏らして水たまりを作ったり、決してできた子ではなかったが、その娘の行為や状態がどのようなものであれ、娘がいる世界が僕の世界であってそれ以外はない、という自分の居場所を実感した。10年以上独り暮らしを続け孤独には慣れていたつもりだったが、僕はもうあの世界から移行したようだ。今の世界の根源的土台が、小さな娘によって支えられている事実を叩き込まれた。電車で熟睡する娘の重さがその証のように思えた。
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任田進一

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