弱さを隠す

11 19, 2012
AとBどちらが良いか、という問いに対して、自分だけは確固たる信念でもってその差がわかる、他人の意見はどうでもいい、と考えられる人が時々いる。しかし今、そういう優劣の指針を個人に委ねることは稀であって、多くは集合知とか調査等の複数の目で判断されることが最近の流れだと言える。実際、制作作業よりも調査検証を優先するクライアントのスケジューリングに、急かされる人は多いのではなかろうか。

「利休にたずねよ」山本兼一(PHP文芸文庫)
美意識でもって、怒れる他者をゆるりと酔わせていく茶の湯シーンが、実に気持ちよい。太陽と北風の上着脱がせ競争そのままなのだが、他者を圧倒するのではなく、ゆっくり客人を驚かせつつ、静かに心をくるんでしまう利休マジックは、誰もが味わってみたいと思うのではなかろうか。しかし、その神秘が度を超えてしまうと、それは他者の恐れを招く。美しいとはこういうことだ、という価値観は、やはり個人の一存ではなく様々な方向で存在すべきだ。本書でその美意識に翻弄されるのは秀吉だけではない、利休の妻である宗恩も夫の理想に添えるよう細心の注意で日々心を砕いている。そしてそういう日常は結構しんどいと思われる。利休は決して価値観を強制しているわけではないが、自分だけの信念でもって動いている人は、自然と他者へ圧力をかけてしまうもので、同行者にとってはやっかいな問題なのである。今の時代が調査結果に頼るようになったのも、そういう独裁者の一存からの逃避なのかもしれない。
所詮、人間は美に翻弄されるもので、手なずけようとしてはいけないのだろう。それは利休をもってしても無謀だったということだ。今の現代美術を見てもそれはよくわかる。どうにかなる問題ではない、ただそこで議論したいとか狂ってみたいと思わせる吸引力が、確かに美にはあって、人間はそこに引き込まれてしまうようなのだ。ヤバいなあとは思いつつも、ある時自分が目指していた何かが偶然結実し、その美を垣間見た時、ようやく苦労が報われたという幸せに満たされるが、もちろんそれは幻以外の何ものでもない。しかし、その勘違い的一瞬は、間違いなく日常を破る躍動感に満ちた時間だったりする。これは、誰かに楽しませてもらうというディズニーランド体験のような時間とは全く異なり、一個人として隔絶された絶対的歓喜に近く、その魅惑は明らかに人を冷静さから遠ざけるものだ。

作品を作るということは、その魅惑体験を味わいたいというよこしまな野望とセットであって、几帳面に事務作業をこなすような行為とは明らかに異なる。宝石を見つけるべく必死に穴を掘る人間の心理に近いかもしれない。つまり、そんなに高貴なものではない。でも思う。これが完成したら、どういうことになるのか、そこで味わえる(かもしれない)新たな体験以上に刺激的な時間などあるのかと。本書で利休は言う「人はだれしも毒をもっておりましょう。毒あればこそ生きる力も湧いてくるのではありますまいか」「肝要なのは、毒をいかに志にまで高めるかではありますまいか。高きをめざして貪り、凡庸であることに怒り、愚かなまでに励めばいかがでございましょう」
利休の鋭利な感覚に、多くの人が驚愕し同時に不気味に思う。その怨念とも言える美に対する焔の謎が終盤明かされる。そこには、腹を切るという行為を受け入れた心理が、無理なく納得できる。事実かどうか知らないけれど、彼のこだわりの秘密を知る時、美に象徴される文化という大義名分は、案外些細な非常に個人的な問題を、他者が勝手にすり替えただけなのかもしれない。美に対する執着心など、絶対にどこか歪んでいないと持てるものではない。それは自分の弱さを隠すためであることが多い。決して自分の強さを誇示するためではない。脆弱な自分をなんとか屹立させるために編み出した、必死な手段こそが「作品」なのかもしれないと、本書を読み思うのだった。
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任田進一

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