無いことの充実

11 02, 2012
近づいて観るとそれは見えなくなるが、少し距離を取って観ると、ほのかな色の連なりがゆっくり立ち上がってくる。何も無いわけではない。何かが在ることが「無い」ことを利用して主張してくる。それらの作品群を観ると、日々知らぬうちに少しづつ汚染された意識がすっきりとリセットされる気がする。

「地上はどんなところだったか」内藤礼(ギャラリー小柳)
相変わらずそのほとんどが空白に満たされた空間に身が引き締まる。自分の周りが大気で充満していることに気づく。作品を通してその周囲に広がる微細なモノの価値が少し理解できるような気になる感覚は、いつ体験しても嬉しい。
過剰な主張で迫る商品や押し付けがましい広告といった、生活する上で逃れられない日常の光景が、突然流れ落ちて真っ白になった時、何が残るのかを鮮やかに見せてくれるようだった。原研哉が「試しにテーブルに何も置かない状態を作るだけでいい、だいぶすっきりする」的なことを言っていて、そうしてみると確かに 気持ちよい。在ることの充足よりも、無いことの充実に意味があるのだろう。

インスタレーションで、どこに作品があるのかわからない、というタイプの展示が時々あるが、そのぼかーんとした空間そのものを見せつけるやり方は、非日常的だしその裏切られ感と共に、そこに潜む作品探しへ鑑賞モードがシフトする感覚は、確かにそれなりに楽しい。しかし、そのネタなり構造がバレると、空白であるがゆえの謎めいた空間が、急に乾燥した無表情な単なるスペースに変化してしまう。
内藤礼の展示も、一見何も無い系になりそうだが、どれだけそのインスタレーションの構造が明らかになっても、空間は冷めない。いつまでも居たいような、そこかしこに点在する作品群に包まれていたい気分になってくる。ほとんど色もなく無色なのだけれど、実に暖かい。
今回、初めて観るタイプの作品があった。具体的な形がそこにある。そして小さい。しかし、赤ん坊が限りない弱さでその存在の強さを主張するように、凝り固まったスケール感覚を揺さぶるような作品だった。極小の点で表現された目らしきものに、色の集結があり、こういう表情の作り方もあるのかと思う。きっとこういう意味があるのだろうという判断をさせない力を強く感じた。いま立っている地上は、どんなところだったのか、確かにそういうことを考えたくなるのだった。今月の22日まで。
20121017-kurenboh.jpg
(c)Rei Naito 2012 Courtesy of Gallery Koyanagi
関連記事
0 CommentsPosted in 展示

Previous: Saturday lunch

Next: お掃除
0 Comments
Leave a comment
管理者にだけ表示を許可する
0 Trackbacks
Top
プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ