個人と分人

10 16, 2012
平野啓一郎によると「個人」は人間を示す最小単位ではないようだ。「個人」は明治時代に入ってきた、もうそれ以上分けられないという意味のindividualを和訳したものでしかなく、その単語:individualのinを外したdividualこそが今考えるべき個人の単位で、和訳するとそれは「分人」ということになるらしい。現代人は、状況によって様々な顔を使い分けているのが普通で、性格や考え方をひとつに限定する「個人」という単位があるおかげで多くの問題が噴出しているが、個人は様々な側面を持つ「分人の集合体」と捉えた方が自然なのではなかろうか、というのが著者の主張である。

「私とは何か『個人から分人へ』」平野啓一郎(講談社現代新書)
個性とか本当の自分という言葉が危うくなっていることは、誰しも感じていることで、自分とは何か、と思う自分が既によくわからない状態にある今、確かにこの考え方を導入すると説明しづらい自身の在り方が明解になる。仕事をしている自分と、子供に接している自分は明らかに異なるし、同様に人への挨拶も、初対面の人と長い付き合いのある人とでは、普通使い分ける。個人の中にある自分は、対応する人が誰かによってアレンジされることが常識であり、誰に対しても俺様的な態度では、他者への圧力をかける非常識な生き方という他ない。つまり、それぞれの場面で出てくる自分は、全て本当の自分であって、仕事をしている自分は、仮面をかぶった偽の自分とかいう考え方自体に無理がある。そこで個人をさらに分け「分人」という単位を採用し、それぞれの状況や対応する人に合わせて、人はその中で待機している「分人」を登場させて生きている、と考えるのはどうかということだ。ただ、これは色んな言い方で今までも議論されてきた。社会に対して複数の関わり方を持つ人は、今時珍しくないし、ネット空間と実生活空間で人格の使い分けを意識している人も多かろう。

本書の興味深い点は、その「分人」とされる人格自体が、自分で操作できるものではなく、他者との関わりの中で自分の意志とは関係なく、自然に生まれるのではないか、というところだ。好きな人と接する時の自分が、いつになく饒舌になったとしたらそれは自分の意識による人格操作ではなく、接している人の力によって導き出された自分の「分人」の姿であり、同様に嫌悪する相手と話す時、妙に感情的になったりするのも、相手に導き出された自分の「分人」の滲みに他ならない。相手からの影響を受けた自分と同様、接している他者も自分からの影響を受けている分人同士だ、という視点を持つと、人間関係の交錯が少しは整理されるかもしれない。

他者と接することで常に変化してしまう自分、と考えると随分不安定な感じだが、それは自分が様々な方向で拡大する可能性を秘めた存在であるともいえる。自分の何かを引き出すのは、半分は自分だが、もう半分は他者だとすれば、行動範囲を広げるリスクの意味がよくわかる。自分を大きく開花させてくれる人が、どこかにいるかもしれないという思いは、分人思考であれば意外に荒唐無稽ではない。ただ、それには必然的に自分自身の行動力が問われることになろう。

本書には「分人」をふまえた、愛の定義もある。愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。なるほど。いじめ問題にも言及している。自分は本質的にいじめられているのだ、などと考えてはいけない。家で心地よく両親と過ごせる時間があれば、それも本当の自分だ。苦しい思いをしている自分が全てではない、足がかりになる自分がいたら、それを大切にすべきだ。「自分はひとつ」という考え方は、非常に生き方を苦しくさせる。ましてや自殺によって、全ての自分(分人)を消してしまうのは得策ではない、と著者は言う。その通りだと思う。
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