写真の力

10 12, 2012
実物は見過ごされてしまうような花があったとして、それをある人が撮影して発表し、その花の力に気づいた人が増えた場合、そこには撮影者や写真の力が、花の魅力を引き上げたことに関与していると思う。見過ごされている何かを再発見させる力が、写真には確実にある。しかし、誰もが目を向けずにはいられないような、強烈なパワーを持つ花を撮影し、それを写真の力だというのはどうなのだろうか。

「写真力」篠山紀信(東京オペラシティアートギャラリー)
芸能人を見かけた時「ああやっぱり見られることを商売にしている人は何か違うなあ」と思う。僕は超能力を持っていないが、確かに著名な人を見るとオーラを感じることがある。
展示はのっけから有名人が並ぶ、美空ひばり、三島由紀夫、渥美清、大原麗子、夏目雅子、武満徹、吉永小百合、山口百恵、AKB48、、という感じである。展示リストが配られるが、そこにはサイズやプリント方法などは一切なく、人名と年代だけである。しばらく観ていると、もう写真を観ているというより、名前の確認だけをしていた。そしてそれが判明すると、それ以上何かを考えたいとは思わなくなってしまうのだった。確かにこういう展示をすると集客力があるのだろう。大体この美術館はいつもガラガラなのに、結構人がいた。そういう意味では成功している。しかし、最後のコーナー以外ほとんど印象に残らなかった。
多くの写真家は、その個性が作品に出てしまう。もしくは作品にコンセプトを込める。奇しくも同じ場所で以前、蜷川実花の展示を観たが、カラフルであることビビットであることを、これでもかと強調することで、蜷川色をアピールしていた。芸能人ばっかり撮っているのではないということはよく伝わってきた。しかし、結局人が群がっていたのは、最後の芸能人スナップを羅列したコーナーだった。人は人に弱いということか。少々安易に思うけれど、有名女優をネタに作品を作る作家が多々いる。たぶん客が呼べるのだろう。しかし大抵そういう作品を観て思うことは、女優達の魅力に負けているという感想でしかない。
今回の篠山紀信はそういう意味で、最強ではある。ほとんどの写真は、以前どこかで見た超メジャー級のものばかりだ。もちろん有名人達にのまれている感じはない。しかし、どうしてもこれを写さなければいけなかった、という切実さもあまり感じない。そして、僕などが言ってはいけないのだろうが、芸能人のパワーは素直に感じたけれど、写真そのものに篠山節というべき何かがないように思えた。
ただ、最後のコーナーだけは違った。モノクロの一般人が並んでいる。被災した方々であるらしい。カメラと対峙する老人や子供、若い夫婦が緻密に写されている。そして彼らは実に堂々と立ってこちらを見返してくる。見入ってしまった。配られる展示リストが人名と年代だけだった意味がようやく理解できた。芸能人ばかりでなく、こういう写真をもっと展示してほしかった。中平卓馬と決闘していた頃の写真でもいい。せっかく写真を見るのだ。見たことがない世界を見せて欲しい。もしくは見ていたけれど見えていなかった世界でもいい。過去や既に知れ渡った美を反芻するためではなく、様々な物事に対する未だ発見されていない、見方の創造力を誘発するのが写真ではないのか。そしてそれが「写真力」だと僕は思いたいのだが。

たぶん過剰に反応してしまったのは、このタイトルのせいだろう。しかし英訳タイトルは、なぜか「THE PEOPLE」になっている、そう考えると「写真力」を「人間力」とした方が、まだ素直に観れたかもしれない。
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