衝動

10 06, 2012
何事も基礎は大切で、その道の勉強をせずにモノを作るのは困難だが、何より重要なのは、作り始めた衝動の方ではなかろうか。僕はどこかで習うことを嫌悪しており、自己流でもそれを極めれば作品は出来上がると思っていて、ただこれは子供がピアニストのつもりになって、メチャクチャにピアノを弾いたまま大人になったのと似ている。5歳の娘がピアノを習い始めたのだが、弾いているのは指の動きを訓練する練習曲ばかりで、とても音楽とはいえない。たぶん娘も不満だろう。もっと両手でピアニストのごとく奏でたいと思っているだろうが、そういう思いだけで弾けるほどピアノは甘くない。また相当頑張ったところでなかなか先生を越えられるわけではないし、たとえそれをクリアしても楽譜通りに弾ける人なんてたくさんいる。やめる人と続ける人の差はどこにあるのか。
浪人中、石膏デッサンをしていたが、あれも当初はひどいデキだったものが、ある程度訓練を積むと、誰でもまあ形になってくる。そのうち形以外にも目を配れるようになり、何か成し遂げたような気がするが、それは大きな間違いで、上手に石膏デッサンができたところで、評価されるのは入試や予備校の中くらいだ。あれは、モデルとなった本物の彫刻を作った作者の方が、何倍も価値のある仕事をしている。そっくりに描くことが無価値とまでは言わないが、それだけでは厳しい。
しかし写真は違う。もちろん職業としてクライアントに応えるべく仕事をするには、一定の勉強や修行が必要だが、今のカメラ性能があれば、誰だって苦労なくそこそこ撮れる。事実娘は時々思いもよらない見事な写真を撮ったりする。もちろん差はある。巨匠と素人では絶対的に違うが、それはピアニストとピアノ初心者の差ほどではない。そういう意味で写真はとても怖いものだ。さらにデジタルカメラが普及し、枚数制限がなくなり数が打てる分、よりプロとアマの差は近づいたように思えた。

しかし、僕はやはり怖かったのだろう。普通の状況で素直に撮影したモノ(被写体に感動して素直にシャッターを切るということ)を作品として出すことに抵抗があった。それは誰にでも出来ることなのではないかと思え、とにかく特殊な状況を設定しなければシャッターを切れなかった。それは写真に関する本や展示を見るたびに顕著になった。結果、写真なのだが極めて写真的でない作品を作ることになる。それは今自分が制作している作品でさらに助長されている。ある街をスナップしているのだが、いかにそれを壊すのかに終始している。対象の魅力に引き込まれるのを避け、対象をいかに自分に引き込むかが勝負所になっている。実に素直ではない。

先日頼まれて、神輿をかつぐ子供達を撮った。純粋に喜ぶ子供の顔を人数分おさえるべく、連写していたのだが、これが本当に楽しいのだった。そこには、面倒なコンセプトもない。生き生きしている子供達がいるだけなのだった。それをそのまま見る快感があった。その時の自分は、たぶん写真に対して素直だったはずだ。しかし絶対的に思うのだが、作品は素直であってはいけない。徹底的に反発するものでなければならない。偏屈でもあまのじゃくでも頑固でもいい。芸術の困難な問題がそこに潜んでいるように思う。最初に抱いた衝動がそこあるのか、問われる気がする。
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任田進一

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