06 24, 2010
部屋の表情を作っていた様々な物達は段ボールに納まり、それらを引越し屋さんが次々運んでいく。その手際の良さは実に見事だ。本がギッチリ詰まった段ボールなど、僕は持ち上げるだけで精一杯なのに、彼らはそれを2個単位で抱え、走る「ちょい重も」とか言いながら。そしてそれを速度を保ったまま続けることができるのだ。いったいどういうパワーなのだろうか。
5年ほど暮らした空間にこびり付いた自分らしさのようなものが、荷物が減っていくごとに剥ぎ取られ、当然なのだが、ここは借家なのだと思い知った。2~3時間経っただろうか、何も無くなり表情が消えた空間を見て、初めてここを内見した当時の気分を思い出した。徐々にこの家での動きを体が覚え、自分と家が一体化していく感覚は、地に足を着けて地面を踏みしめて歩くようで気持ちよかった。しかし、再びここはリセットされたようだ。もう娘の落書きが昔の傷のごとく残るだけだ。

たぶんこういう感覚は古い人間なのだろう。時代の空気は、所有に価値を求める行為の終わりを告げつつあり、今後はレンタル対応での生活が主流になるように思う。蔵書のデジタル化が流行っているようだし、物を持たないことでの身軽さがカッコイイことになるのだろう。家などその最たるもので、どんどん新しい物件に乗り換えていく借家スタイルが多数派になるようだ。家具のレンタルもあるようだし、自分のモノという概念自体が消えていくのかもしれない。自分のモノを持たないというリスク回避の生き方を否定する気は毛頭ない。ただ、初めて所有した土地に建てた家の窓から、空がよく見えるのだが、その空が自分のための空に思えて仕方がない。初日の明け方の空を僕はその窓から2時間ほど眺めていたのだが、初めて見るような新鮮な光だった。大きな物を所有することで、本当に必要な物とそうでない物の差が、これから見えてくるのかもしれない。所有しない漂う軽さは気持ちいいが、大地に根を張る覚悟も重要ではなかろうか。腹も据わる。
土地に人が根ずいたきっかけは、狩猟民族から農耕民族に変わったからとか色々あるが、その理由のひとつに、死者を埋葬する行為がきっかけなのではないかと、吉村昭が何かの文章で書いていたように思う。その埋められた人から、生きている人達が離れられなくなったのか、どうなのかはわからないが、親なり子供なり仲間なりが地中にいるその場所で、生活を続けたいという思いは、何か納得できるものがある。
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任田進一

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