作品体験

05 15, 2010
それまでの知識や経験を無にされ、底が抜けたように自分が翻弄される驚きは、作品と呼ばれる表現手段から得られる刺激的な体験だと思う。しかし最近足が重くなった。端的に言うと展示を観る行為がほとんど確認作業なのだ。「まあ本物は観た、けれどネット画像と大差なかった」という結果が実に多い。とりあえずの情報として知っておくことと、その作品を体験し咀嚼することは全く別の行為になる。確認作業とは、本物と対峙してもそれを情報としてしか認識しないことに他ならない。観光名所で写真を撮る旅行者のようなものだ。どうしたことか。事前にそれが誰のどういった展示なのかを調べてしまい、白紙の状態で向き合わないことが問題かもしれない。その場合仕入れていた情報とその本物の間に、どれほどの差異があるのかを確認することで終わってしまう。本来作品を体験するとは、そのようなことではない。
あらすじを知ることと、その本を最後まで読み通すことは、全く別の行為だ。同様に映画の予告編を観てその批評を0円で読むことと、その映画をDVDで200円で観るのと、映画館へ行き1800円で観るのは、全て違う行為だろう。なんとなく知った気分になることの恐ろしさを思う。何かをまっさらな状態で味わうリスクを避けているのだろう。なぜか、時間がないからお金がないから勇気がないから等どれでもいいが、そこへ踏み込まないことには、冒頭の自分が翻弄される喜びなど体験できるわけがないのだ。情報を処理するように作品を知るのではなく、制作者の追体験をするつもりで作品に飛び込む覚悟がないといけない。それはしんどいことだが、楽になにかを手にしたところで、それらは全てこぼれ落ちてしまう。情報は更新することに意味があり、ストックしておく価値は低い。真摯な体験の蓄積と、知識としての情報処理ではその厚さが違う。自分にとってどちらが大切なのかその時々で異なるだろうが、とりあえず、事前の画像情報は見るべきではないように思った。知るということがそれほど重要ではないのかもしれない。
関連記事
0 CommentsPosted in 展示

Previous: プレゼン上手

Next: 不自由
0 Comments
Leave a comment
管理者にだけ表示を許可する
0 Trackbacks
Top
プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ