自然
02 23, 2012
自然の描写は難しい。細かく描き過ぎてしまうと、変にデッサン力を見せつけるだけのイヤミな印象になるし、アレンジし過ぎるとこれまた説得力のない絵になる。別にその中庸を目指す必要もないが、自然を描く人は、なぜ自然なのかという確固たる理由を持たないと、自然そのものの美しさに、のみ込まれてしまうだけかもしれない。
「光の名残ー明滅の庭ー」塩賀 史子(neutron tokyo)
「明るみのほうへ」小柳 裕(ケンジタキギャラリー)
自然の力を見せつける技術に長けたふたりだと思う。人間にとって植物の絵ほど抵抗感なく受け入れられるモチーフはなかろう。だからこそ、かなりの工夫がそこに求められる。小柳氏は極端に目の荒いキャンバスを使い、わざと解像度を低くしたような画面に、実に日常的な「ベランダの植物」の成長と衰退を淡々と器用に描いている。特にコメントされてはいないが、単なる美しさへの回避としての意図が見受けられた。絵の上手さをぼかした上で、自然が語る日常の光景を巧みに描き出しており、実に現代的だ。
対して塩賀さんの絵は、自然の美を渾身の直球で描いている。誰が見ても美しくて仕方ない光景がそこに広がっている。話を聞くと実在の風景で近所だそうだ。なんとも羨ましい場所に住まれているものだと思う。あまりも真っすぐなその視線は、そういう場所で生活を続ける人だけが持てる特権かもしれない。
塩賀さんの仕事は、ざっくり分けると2タイプあるように見えた。ひとつは、その植物の名前がわかる距離まで接近し、ピントを合わせる部分とぼかす部分までをも描き込んだ写真のようなタイプ。もうひとつは視線を広角にして、それぞれの植物が特定できないレベルにまで離れた距離で、光景全体をおぼろげに描くタイプである。僕は圧倒的に後者の方が面白かった。
自然の持つ美しさは、その形態としてのラインや色彩にあることは間違いない。しかし自然に囲まれた時の、都会とは異なる空間の変化や開放感は、形態や色彩の変化以上の何かがある。無理に言えば、空気感のようなものだ。塩賀さんの光景全体を捉えたような絵には、形態を越えた、その濃厚な空気が着実に描かれているように思われた。
対照的なアプローチのふたりで、比べるのはよくないのかもしれなけれど、どちらも印象に残る絵だった。そして、どちらのタイトルも詩的だった。
塩賀さんの展示は3 / 11まで、小柳氏の展示は2 / 25まで。
「光の名残ー明滅の庭ー」塩賀 史子(neutron tokyo)
「明るみのほうへ」小柳 裕(ケンジタキギャラリー)
自然の力を見せつける技術に長けたふたりだと思う。人間にとって植物の絵ほど抵抗感なく受け入れられるモチーフはなかろう。だからこそ、かなりの工夫がそこに求められる。小柳氏は極端に目の荒いキャンバスを使い、わざと解像度を低くしたような画面に、実に日常的な「ベランダの植物」の成長と衰退を淡々と器用に描いている。特にコメントされてはいないが、単なる美しさへの回避としての意図が見受けられた。絵の上手さをぼかした上で、自然が語る日常の光景を巧みに描き出しており、実に現代的だ。
対して塩賀さんの絵は、自然の美を渾身の直球で描いている。誰が見ても美しくて仕方ない光景がそこに広がっている。話を聞くと実在の風景で近所だそうだ。なんとも羨ましい場所に住まれているものだと思う。あまりも真っすぐなその視線は、そういう場所で生活を続ける人だけが持てる特権かもしれない。
塩賀さんの仕事は、ざっくり分けると2タイプあるように見えた。ひとつは、その植物の名前がわかる距離まで接近し、ピントを合わせる部分とぼかす部分までをも描き込んだ写真のようなタイプ。もうひとつは視線を広角にして、それぞれの植物が特定できないレベルにまで離れた距離で、光景全体をおぼろげに描くタイプである。僕は圧倒的に後者の方が面白かった。
自然の持つ美しさは、その形態としてのラインや色彩にあることは間違いない。しかし自然に囲まれた時の、都会とは異なる空間の変化や開放感は、形態や色彩の変化以上の何かがある。無理に言えば、空気感のようなものだ。塩賀さんの光景全体を捉えたような絵には、形態を越えた、その濃厚な空気が着実に描かれているように思われた。
対照的なアプローチのふたりで、比べるのはよくないのかもしれなけれど、どちらも印象に残る絵だった。そして、どちらのタイトルも詩的だった。
塩賀さんの展示は3 / 11まで、小柳氏の展示は2 / 25まで。