不自由

05 10, 2010
自由に見える動きというものは、言ってしまえば不自由さによって支えられているように思う。ここでの不自由とは規制やルールのことで、その束縛があることで行為が限定され、洗練されるのではないかということだ。スポーツで例えると、優秀な選手は、その試合の中で誰よりも自由に見えるが、それはそう目に映るだけで、そのプレーはルールという不自由さに縛られてこその動きであろう。つまり、制限のない世界での動きは、自由でもなんでもなくただ破天荒なだけで、不自由さの中でこそ自由の意味が見えるはずだ。

幼い子供がいる核家族で、余裕のある親はいるのだろうか。僕の場合個展などの展示回数は、一人暮らしの頃と比べると明らかに減った。それは制作に使える金銭や時間の減少が、原因のひとつではある。しかし、制作活動の重要さは展示回数ではない。それも大切だが、その価値観に縛られることは愚かだろう。制作時間の減少が、そのまま質の低下とはならないはずだ。逆に無駄に手が動かせないからこそ、注意深く思考できるようになったかもしれない。問題は環境にはない。それは最初から自分の考え方にしかないのだ。
自分を取り巻く状況をルールとした場合、その状態の特性を肯定すべきだろう。つまり環境の否定は、サッカーで手を使いたいという欲求と同じで無意味だ。ルール改正ばかり考えていても仕方ないし、根本部分は変えられない。また、手を使えないからこそ個性的な動きが生まれる。ここが重要だろう。今立っているその環境だからこそできる行為が、今すべき行為であり、それが最も個性的な仕事に繋がるのだと思う。
例に出したスポーツの中で、もうひとつの重要な要素は、相手選手の動きで、これはルール上での自分を妨害する要素だが、これがさらにこちらの動きを活性化させ、行為の強度を増加させるのではなかろうか。不利な状況を逆手に取り、だからこそ見せ場が作れるぐらいになれないものだろうか。
子供用の「こうだったらいいのにな」という様々な仮定を繰り返す歌があるが、大人もたぶん似たようなことを考えてしまう。しかしそうではなくて結局は「こうするしかないのかな」を意志を持って続けるしか道はない。そしてその行為が、その人自身を如実に表すように思う。
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