誰のために

01 12, 2012
去年、ある映画の感想として「僕は自分のために働く」的な文章を書いたところ、色んな場所でその感想なり意見を頂いたので、少し補足しようと思う。

もちろん働くということは、その対価としてお金をもらうわけで、タダで動くわけではない。そこには責任というものがある。であるから、自分のためだけではなく、○○のためという相手が複数存在することは間違いない。
しかしここからなのだが、仕事の種類は色々あり、特にクリエイティブという分野になると、相手を喜ばせなくてはならない。なぜなら、それがないと信用が得られないからだ。ただそこには明確な到達点がない。そうなると「誰がやっても同じ」という仕事のやり方は成立しない。「任せられた」という責任がそこには在り、仕事に個性を出さねばならない。ここを踏まえると「誰がやっても同じ」というやり方ではアウトなのだ。相手に「なるほど」と思わせる何かが必要になる。そこで、その仕事の完成度をあげる絶対的な要素とは何か、と考えると○○が納得しそうな何か、を平均的に仕上げる以上に、自分が本当にそれでいいと思うのか、という「問い直し」が必要になる。それがその人の「表現」であり、依頼に対する応えに繋がると思う。
ただここで難しいのは、そのプレゼンを受ける側に、判断を自分で下す力を持っている人か、そうではない人か、という分かれ目がある。そうではない人に対しては、私がこう思ったという考えよりも、世間ではこれが流行ってます的な言葉の方がうける。しかし、これは変わるべきだと思う。よく言い訳をする人は「~がそう言うから。そういうキマリだから」的なことを発言するが、それは仕事において自分を消している人、ではなかろうか。(繰り返す、そういう種類の仕事があることもわかる。ぶっちゃけ多くの仕事はそういうものだ)

マニュアルというモノが、僕はどうも好きになれない。それがあることでスムーズにビジネスなり接客が進むのかもしれないが、その機械的対応に満足する人などいないし、何らかの相関関係が生まれるとも思えない。失敗は少なそうだが、仕事としての存在感が出るとはとても思えない。いま求められているのは、無難なやり方ではなく、「あなたはどう考えたのか、どう応えるのか」というその人ならではの思考ではなかろうか。「雇い主のためではない、自分のために動く」とは、そういう意味で書いた。社長だって、そういう社員の方が嬉しいと思う。少なくともそういう人は、失敗を他人のせいにはしない。

と、ここまで書いて思ったのだが、芸術を僕は自分のためにやっているかが、少々怪しくなった。これに関しては、たぶん使命としてやっている。生活上アートをやることで、失う部分は多い。とくにお金の減り具合は尋常ではなく、明らかにやらない方が懸命だと思う。しかし、そうできないのは、誰にいわれたわけでもない「自分の役割」があるように思えて仕方がないからだ。今これを僕がやらなければ、誰もやらないだろう。それはなんだか残念ではないか、という実に説明しづらい思いがあるのだ。これに関しては、自分のためでも家族のためでもギャラリーのためでも観てくれる方々のためでもない。それ以外の「大きな流れ」というか、つまりは何かの可能性を拡張するためだ、というしかない。
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