コダック

01 08, 2012
コダックが危ないそうだ。容赦ない時代の変化を実感する。デジタルかフィルムかという論争があったが、僕はどちらでもよいと思う。それにはそれぞれの考え方があるだろう。僕も昔はフィルムだった。容赦なくコストがかかった。下手なせいもあるだろうが、ポラロイドは次々になくなるし、ちゃんと写っているのか確かめるまで不安は消えなかった。

初めてデジタルが参入して来た時、一応抵抗感はあった。しかし使ってみると、理屈上無制限にシャッターが切れる開放感に酔いしれた。すぐに画像を確認できることや、現像に時間とお金がかからないことで、どれだけ助かったことか。ポラロイド代もフィルム代もいらないなんて、どういう世界かと思った。現像ソフトで心ゆくまで画像を調整できるのも、いままで外注頼みで遠慮していた分、どこまでもこだわれるのが楽しかった。フィルムの方が諧調が豊かだし深みがある等々、その様々な良さを強調する人は多いし、その通りなのかもしれない。しかし残念ながら、事実上その差異を分かる人は少なかったのだろう、あのコダックがなくなるかもしれないのだから。

僕はあまり道具にこだわらない。必要な機能がそこにあれば何でもいいと思う。カメラも同じだ。キャノンを使っているのは、最初に買ったのがキャノンだったことと、信頼しているカメラマンがキャノンを使っているから、というぐらいだ。それよりも何を写しているのかが、圧倒的に重要だと思っていた。しかし、最近自分に足りないと感じるのは、そういう執着心ともいうべき道具への愛情なのかもしれない。自分でレンズを磨いてカメラを自作する人の写真をみると、確かにその差異を思い知る。写真としての魅力は、本来こういう部分にあったのだろうと教えられる。話はずれるが万年筆を使い始めたことも大きい。文章はそれこそ内容が重要で、ボールペンだろうが筆だろうが何だっていいと思っていたが、確かに万年筆は何か違った。事実もうボールペンを持つ気がしない。その道具を使うこと自体に、喜びがあったりするのだ。

鉛筆はステッドラーかユニか、筆はホルベインかウィンザー&ニュートンか、絵の具はリキッテクスかアクリラか等々あったことを思い出す。そんなことより、どういう絵を描くのかが重要だろうと思っていたが、実際、相性のいい筆とかがあったわけで、道具の価値がないわけない。空海(弘法大師)は筆を吟味していたらしい。今年の目標は、自分の道具を見直すことにしようか。

昔、海外へ行く時、X線を避けるバックに、かさばるフィルムを何十本も入れたことを思い出す。そして帰国後、確認する時の高揚感は確かに特別だった。もう一度その体験を復習していく感覚があった。あのような、後で見る喜びはデジタルでは得られない。今後フィルムは骨董的価値を残してアートとして存在する以外、道は険しそうだ。無駄とされるものがどんどん削られていく時代なのだろう。しかし、それは偏った見方であって、何が無駄なのかどうかは誰にもわからない。
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