ふさわしい場所

04 22, 2010
その他大勢の中そこに座り、上長の話を聞くという会議でいつも考えることがある。それは、僕はなぜこの会議に出ているのかに始まり、なぜこの会社にいるのか、なぜこの仕事をしているのかに至るのだが、答えもなんとなく出ていて、僕の能力レベルで頑張った結果ここにいる、というものだ。ただその不思議な繋がりを反芻してしまうことがやめられない。

人間は必然的に、その人にふさわしい場所へ流れる傾向の中にあると思う。
脱線するが、中学生の頃M君という同級生がいた。彼の凄さは他の生徒を圧倒し、たぶんみんなそれを心から納得していた。成績は常に1番で走れば誰よりも速く、リコーダーのテストでは皆がその音色にしびれた。当時、太さが誇張された妙なズボンを履くのが主流だったが、彼はずっと学校指定の標準ズボンで通う行為を卒業まで貫いた。先生が作成するテストの模範解答はM君の解答をコピーすることだった。つまり教師の解答を越える答えを彼は書いていた。性格も歪みなく目立つことを避けていて、不良からも先生からもPTAからも、もちろん普通の生徒や目立たない生徒からも愛され、読んでいた本はアインシュタインの相対性理論だった。また文化祭で「生まれ変わるのなら誰になりたいか」というアンケートで、あらゆる歴史的偉人やスターを差し押さえ、女子も含めた生徒の約7割が「M君になりたい」と答えた。M君の素晴らしきエピソードは終わりがないのでもうやめるが、ひとつ覚えているのが、大抵ひとりで帰宅していたことだ。高貴であるがゆえの孤独を凡人の僕は未経験だが、彼はそれをひしと感じていたに違いない。そして、たぶんそれぞれの学校には、彼のような孤独な思いを秘めた輝度の強い逸材が一定数いたのではないかと思う。そしてその人達は成長と共に、彼らにふさわしい場所へ流れて行ったのではないか。イチローが甲子園で活躍しプロ野球で記録を残し、そのうちメジャーで殿堂入りするように。山崎直子さんが東大へ行き、お母さんになり、NASAへ行き、宇宙へ旅立ったように。稚拙に例えれば、玉石混合の玉は玉で集まり、石は石で集まることが必然、もしくは運命ではなかろうか。そしてその中でも再び玉と石に分かれ、さらにそれぞれが集まり、を繰り返し現在に至るということだ。
冒頭の会議中怒られそうだが、そんなことを考えた。つまり僕の成長過程の行き着く先が、今のこの会議室に至るのだろうなあと思ったのだ。あたり前といえばあたり前だ。

試験の点数で僕がつまらぬミスを連発していた時、父が諭してくれたことがあった。本当のライバルは見えないところにいる、と彼は言った。つまり実力が拮抗するレベルを全国模試などで例えた場合、同点の人が何人いるかという計算をするらしい。ここで1点多く取るだけで順位がどれだけ変わるかを考えると、確かに微妙な差で何百人か並んでいそうに思える。
父の言いたかったことは、細かい点数を馬鹿にするな、その怖さを知れ、ということだが、少しアレンジすると、広い視点で見た時に同じような思考を持つ人は、側にいなくても世界的にみれば一定数いる可能性がある、とならないだろうか。そしてさらに、人が成長しその進む過程で出会う人が、より自分に近しい存在である可能性が高いと考えるのは乱暴だろうか。年齢性別関係なく出会うべくして出会う人の流れが、本人の意志ではなくその生命体レベルとして繋がり合う必然があるように思えてならない。しかしこれは運命が変わらないというのではなくて、力を入れて何かを続けることで、よりそれを助長してくれる存在と引き合えるかもしれない、ということだ。類は友を呼ぶとは微妙にニュアンスが違う。
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