タイトル

03 24, 2010
僕はある時期から作品タイトルを英語で付けるようになった。
これはなるべく多くの方々に意味が理解できるように、という思いよりは、日本人に対しての意味合いが大きい。なぜか。日本語だと言葉に染み付いてしまった特定の意味が、どうも作品と馴染まないのだ。例えば「空」と名付けると僕が連想する空を、作品とは関係なく感じてしまう。もちろん他の人には、僕が個人的に持つ空に関する言葉の呪縛からは自由なので、問題ないのかもしれないが、たぶん多くの人がそれぞれ定義した「空」があるはずで、その思いと作品「空」がうまく繋がるのだろうか、と考えてしまうのだ。であるなら「sky」とした時の方が、手垢が付いていないように感じる。では英語が母国語の人はどうなのか。乱暴かもしれないが、外国人が使うだけでその言葉は新鮮に変化すると思う。少し話しが外れるが、僕は子供のころ横須賀に住んでいて、犬と散歩している時に、いかにもという黒人から話しかけられたことがあった。彼は「柴犬ですか?」と丁寧に聞いてきた。もちろん意味は理解できたが、その巨体とその発せられた言葉のイメージの乖離が激しすぎて、実に鮮烈に「柴犬ですか」という言葉が僕に響いた。

これは想像の域を出ないが、僕が英語が出来ない人としてそれを使う時、つまりある言語に慣れない人が、それを使用して何かを伝えようとする時、言葉が本来の意味に立ち返えるように思うのだ。つまり、言葉がその不自由さゆえに、リセットされるということだ。それは、しゃべっていなくても効果があるのではなかろうか。ただ間違えて使用すると、意味不明な漢字の入れ墨をしている外国人になるので、細心の注意が必要だ。

タイトルは作品を言葉に置き換えた一種の記号であり、作品の意味ではない。ここの勘違いが怖いゆえに、作家達は工夫をこらす。以前は、詩のような日本語のタイトルが流行った。意味深長な言葉の連なりは、それだけで何かを孕ませる効果があったのかもしれない。
僕が作品にタイトルを付ける行為は、作品の一部に薄いヴェールを掛ける感覚に近い。それは、見えすぎてしまう実態を微妙に隠すと共に、その言葉が持つ意味と作品が絡む効果を期待しているからだ。手品の種明かしではなく、そのパフォーマンスがより魅力を増すようなトークとして、タイトルが機能すれば理想的なのだが。
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