終着点

03 02, 2010
納骨堂を見に行く。
母がクリスチャンなため、いわゆる教会の共同墓地に父は入ることになった。
お墓をゼロから作る余裕がないので、仕方ないのだが、白い壁が印象的な綺麗なお墓で母も満足そうだった。教会の長老さん(長老と言われる方と初めてお会いしたのだが、本当に長老という肩書きがはまっておられる方だった)の案内で中に入ると、名前が記されたお骨の入れ物が並んでいた。名前というものが、それだけで力を持つような空間だった。特に同じ名字がセットで並ぶそれは、夫婦である可能性が高く、このようにふたつ並んで静かに存在するささやかさは、初めて目にする光景だった。母は間違いなく自分もいつかここに入り、父と並んで置かれることを考えたはずで、それは母にとってどういう思いだったのかわからないが、想像するに自分自身の終着点と対峙する感覚だったのではないかと思う。

母は、父の口座の整理や様々な書類の作成を日々ゆっくりやっているようなのだが、そのそれぞれが結局は父をこの世から消す行為だ、と話してくれた。穏やかに笑う父の遺影を花で飾りながら、母が父を消す書類を仕上げているその日常は、なんと悲しいものかと思う。「元気を出して前向きに」と言われたところで、なかなかそうは考えられないだろう。息子としてやれることは、そういった励ましではない新しいこれからの事実を、ひとつひとつ重ねて母へ伝えていくしかないようだ。

教会の方々は本当に親切で、人として大切なことはこういうことかと思えた。母がいつも刺激を嫌い、浮世離れするほど静かに暮らしていたのは、この空気を家にも作りたかったのではないかと、今になってやっと理解できた。母としては、そこでの知人達が眠っているその場所に父も入るのだと考えれば、さらなる善意に守られているように感じるのかもしれない。少しでも確かな安心が母に訪れればいいと思った。
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