霊
08 02, 2011
プレゼントは もらうよりあげる方が楽しかったりするが、それは本書でいう贈与の霊が活性化されるからかもしれない。不可視なそれに人は随分左右されるらしいのだが、近代それは経済重視の視点から軽視される傾向にある。
「純粋な自然の贈与」中沢新一(せりか書房)
インディアンの思考では、贈り物は常に動いていなければいけない。頂いたギフトには贈与の霊が宿り、その霊が活性化されることで、世界は豊かになり人々の心も生き生きし、社会の平和が保たれる。そのバランスを崩したのがアメリカ大陸に渡ったピューリタンで、彼らはインディアンからのギフトをそのまま自分の部屋に飾って所有物にし、贈与の霊の動きを止めた。自分の周りに集まって来たそれらを富として蓄積する行為は、インディアンからすると大地を循環する偉大な霊の動きを、停滞させることになり、まさに悪魔的な不吉の前兆だった。
死を恐れた人間は、農業を生み出し貨幣を発明した。この貨幣は、贈与の霊にとって大きな障害であり対極と捉えてもいい。貨幣=ロゴス=理性、霊=エロス=感性と強引に区切ってみるとその差が分かりやすい。
停滞よりも流動こそが存在を確立させるならば、この貨幣を動かすことでの進化(経済の発展)を今の人間は選んだわけだ。形あるものは滅びるという真理を、無形の流動体である貨幣を使うことで回避したわけだが、貨幣は無から有を作ることができない。有を別の有に変換できるだけだ。種が無限の新しい種を生み出すようには進まない。限界は既に歪みとなって見えてきている。
本書によるとほとんどの宗教は贈与を語っているらしい。必要な心は贈与であると。晩年のハイデッカーも「存在」を表現するにあたり「存在とは贈与するものである」と言っている。大地を循環する贈与の霊を思い出すべき時が来ているのだろうか。
ディケンズのクリスマスキャロルを著者は以下のように見ている。(要約)
人間は心のうちに流動する霊を持っていて、それは生きているときに「仲間の間をあちこちと出歩く」つまり、互いに言葉を交わし理解や感情を通わせるたびに、その霊が流動し個体と個体の間に繋がりを作り出す。ところがこの心の内部から、この霊をいっこうに発動させない人々がいる。この霊の存在に気づき軽やかに流動させることが、幸福の感情を満たす方法なのではないか。
シャレだが零=霊と仮定した時、無から有を生み出す始点、もしくは有が無に還る終点がそこに在るかもと思う、これはもう少し何か考えられそうだ。
「純粋な自然の贈与」中沢新一(せりか書房)
インディアンの思考では、贈り物は常に動いていなければいけない。頂いたギフトには贈与の霊が宿り、その霊が活性化されることで、世界は豊かになり人々の心も生き生きし、社会の平和が保たれる。そのバランスを崩したのがアメリカ大陸に渡ったピューリタンで、彼らはインディアンからのギフトをそのまま自分の部屋に飾って所有物にし、贈与の霊の動きを止めた。自分の周りに集まって来たそれらを富として蓄積する行為は、インディアンからすると大地を循環する偉大な霊の動きを、停滞させることになり、まさに悪魔的な不吉の前兆だった。
死を恐れた人間は、農業を生み出し貨幣を発明した。この貨幣は、贈与の霊にとって大きな障害であり対極と捉えてもいい。貨幣=ロゴス=理性、霊=エロス=感性と強引に区切ってみるとその差が分かりやすい。
停滞よりも流動こそが存在を確立させるならば、この貨幣を動かすことでの進化(経済の発展)を今の人間は選んだわけだ。形あるものは滅びるという真理を、無形の流動体である貨幣を使うことで回避したわけだが、貨幣は無から有を作ることができない。有を別の有に変換できるだけだ。種が無限の新しい種を生み出すようには進まない。限界は既に歪みとなって見えてきている。
本書によるとほとんどの宗教は贈与を語っているらしい。必要な心は贈与であると。晩年のハイデッカーも「存在」を表現するにあたり「存在とは贈与するものである」と言っている。大地を循環する贈与の霊を思い出すべき時が来ているのだろうか。
ディケンズのクリスマスキャロルを著者は以下のように見ている。(要約)
人間は心のうちに流動する霊を持っていて、それは生きているときに「仲間の間をあちこちと出歩く」つまり、互いに言葉を交わし理解や感情を通わせるたびに、その霊が流動し個体と個体の間に繋がりを作り出す。ところがこの心の内部から、この霊をいっこうに発動させない人々がいる。この霊の存在に気づき軽やかに流動させることが、幸福の感情を満たす方法なのではないか。
シャレだが零=霊と仮定した時、無から有を生み出す始点、もしくは有が無に還る終点がそこに在るかもと思う、これはもう少し何か考えられそうだ。