普通の文書
文字と文字の間には適切な空間があり、そこに気を使うだけで文章が飛躍的に読みやすく美しくなる。ブログもしかり。やたら改行が多くてスカスカだったり、文字が突然大きくなったり色がめまぐるしく変わったりすると、素晴らしい内容がそこに潜んでいるのかもしれないが、ほとんど読む気がしなくなる。 見ていたくなる字面と、目を背けたくなる字面があるということだ。そんな思いが澱のように溜まっていた時、川上未映子と多和田葉子の対談を読んで、とても共感できた箇所があった。以下引用。
本をパッと開けたときに「ああいい顔だなあ」と思うんです。意味と同時かそれより少し先に活字が目に飛びこんでくる。立体的なレース模様みたいな感じで、レースの模様はそれ以上意味が出てこないけれど、文字は意味があるから二度おいしいみたいな。(川上未映子)
素早く意味だけを追って読書するには、文字を見ない方がいいんだけど、どうしても見えてしまう。私はそれを「文字のからだ」と呼んでいるんだけど、文字が絵として戻ってきて読書の邪魔をする。そういう読書の面白さというか、難しさというのは非常に重要なことです。(多和田葉子)
これは、活字としての漢字とひらがなのバランスやリズム感の重要さはもちろんのこと、その文章の個性や在り方を視覚的に判断する発想で新鮮だった。ただ綺麗にするのではなくさらに進んだ書き方がそこにはあるようだ。ちょっと意味が違うが、普通の文書を「いい顔」で書けたとしたら、それはたぶん「いいデザイン」かもしれない。
原 研哉が、もう細かい書体の差は必要ないと以前講演で言っていた。標準的な明朝体とゴシック体があれば、後は文字間と行間の完成度を上げることで、なんとかなる的な内容だったと思う。そういえば、その背後に写されていた彼の概念を説明する図がとても美しかった。どうというこのとない線画なのに、スッキリしっかりしているのだった。こういう差はほんの少しなのかもしれないが、 限りなく大きな差でもあるんだよなあと思った。