やめる
「アーティスト症候群」大野左紀子(明治書院)
著者は東京芸大彫刻科を出て20年以上作家として作品の発表を続け、数年程前に作家活動をやめたらしい。この本は表向き、アートと職人の違い、アーティストという言葉の定義やクリエイターとは何かといったモノ作りにまつわる言葉に漂う、曖昧な意味を再考することがメインだが、どうもそれだけではないようだ。
デザイン系専門学校の講師をしている著者は、さしたる覚悟もなくアーティストになりたいという生徒達に嫌気がさしたのか、様々な職業がアーティスト化する現象がいかに滑稽かを記述していく。特に芸能人がアート方面へ進出し作品を発表し、マルチアーティストとして普通の芸能人ではない的アピールをすることに対し、容赦ない作品分析をし、恨みでもあるかのごとく彼らを切り刻む。中でも工藤静香、藤井フミヤ、片岡鶴太郎への言葉は辛辣であった。(ジュディ・オングだけは「不屈の闘志に敬意を評したい」ということだったが)確かに彼らは作品以前に有名な分、注目が集まりやすい。ただ彼らの作品が美術品として歴史に残るとは正直思えないし、そんなことは皆薄々感づいているはずで、わざわざ言葉にする必要などないと思うが、一途にアートを信じ勉強した著者は、自らを巨匠のように位置づけアートを語る彼らを許せなかったのだろう。90年代前半に盛り上がったガーリーフォトブームへの視線も冷たい。そして確かに今その路線は、初期にその流行を生み出したHIROMIXぐらいしか続けられていない。蜷川実花への「意識しているのではなく、好きな色を使っているだけ」への発言に対する「映画監督やっててそんなことがあろうか!」という突っ込みも正しい気がする。何よりも共感したのは、ガツガツした攻撃的な芸術の真逆に位置するポエム系女子アートに対するまとめ方だった。以下引用。
大切なのは、作品を通して人とは違う「私」の感性、「私」のセンスをアピールしていくことである。それもどこかピュアでイノセントなガーリー・テイストで。死なない程度の毒やエロがちょこっとある感じ。一見ナチュラルだけど、それなりのアクやクセを持っている感じ。それが「私」の「自然体」。
こんな風にまとめられてしまう作品や作家達がいかに多いかは、少しでもアートをかじった人なら解ると思うが、確かにアートフェアなどで売れる作品の多くは、今でもこの路線のようなのだ。需要と供給のバランスがとれた世界が、ままならないのはよくあることだが、美術市場がこの流れに支えられているのであれば、ポエム系女子アートが増えていくのは仕方なかろう。売れることは確かに重要なのだ。
対して職人への眼差しは暖かい。「アーティストになりたい」はただの願望に聞こえるが、「職人になりたい」という言葉には覚悟が滲む、という部分は頷けた。
アートをやっている人は、戦力外通告を受けない。年齢制限も基本的にはないので、本人がそう思わない限り続けられる、引き際がない世界なのだ。やめることは裏切り者的な風潮もある。アート以外にそういうプロの世界はあまり見つからない。例えばスポーツの世界は厳しい。カズは痛々しいけれど、所属が許されるなら誰も何も言う資格はない。彼ほど頑張っているという言葉がハマる人もいないだろう。中田よりファンは多いのではなかろうか。
何が言いたいのか。まあ著者はやめることを正当化したかったのだろう。こんな曖昧で不条理な世界はないと。まるで別れた恋人の問題点をあげて「だから私の決意は正しいのだ」と自身に言い聞かせるように。気持ちはわかる。そして本書を読み、決意が揺らぐような人は確かにやめた方がいいとは思う。しかしアートをやる、魔力のような魅力にもっと迫って欲しかったとも思う。著者は確実にその世界を見たはずなのだ。悔やまれる。