やめる

06 11, 2011
長らく人生を掻けて続けていた事をやめる時は、それなりの理由や決心が必要になる。どうやって現在の地位を築いたのか、という成功者への質問に「やめなかったから」という模範解答があるが、何かを愚直に続けるだけが人生ではないだろう。やめることも時には必要かもしれない。

「アーティスト症候群」大野左紀子(明治書院)
著者は東京芸大彫刻科を出て20年以上作家として作品の発表を続け、数年程前に作家活動をやめたらしい。この本は表向き、アートと職人の違い、アーティストという言葉の定義やクリエイターとは何かといったモノ作りにまつわる言葉に漂う、曖昧な意味を再考することがメインだが、どうもそれだけではないようだ。

デザイン系専門学校の講師をしている著者は、さしたる覚悟もなくアーティストになりたいという生徒達に嫌気がさしたのか、様々な職業がアーティスト化する現象がいかに滑稽かを記述していく。特に芸能人がアート方面へ進出し作品を発表し、マルチアーティストとして普通の芸能人ではない的アピールをすることに対し、容赦ない作品分析をし、恨みでもあるかのごとく彼らを切り刻む。中でも工藤静香、藤井フミヤ、片岡鶴太郎への言葉は辛辣であった。(ジュディ・オングだけは「不屈の闘志に敬意を評したい」ということだったが)確かに彼らは作品以前に有名な分、注目が集まりやすい。ただ彼らの作品が美術品として歴史に残るとは正直思えないし、そんなことは皆薄々感づいているはずで、わざわざ言葉にする必要などないと思うが、一途にアートを信じ勉強した著者は、自らを巨匠のように位置づけアートを語る彼らを許せなかったのだろう。90年代前半に盛り上がったガーリーフォトブームへの視線も冷たい。そして確かに今その路線は、初期にその流行を生み出したHIROMIXぐらいしか続けられていない。蜷川実花への「意識しているのではなく、好きな色を使っているだけ」への発言に対する「映画監督やっててそんなことがあろうか!」という突っ込みも正しい気がする。何よりも共感したのは、ガツガツした攻撃的な芸術の真逆に位置するポエム系女子アートに対するまとめ方だった。以下引用。
大切なのは、作品を通して人とは違う「私」の感性、「私」のセンスをアピールしていくことである。それもどこかピュアでイノセントなガーリー・テイストで。死なない程度の毒やエロがちょこっとある感じ。一見ナチュラルだけど、それなりのアクやクセを持っている感じ。それが「私」の「自然体」。
こんな風にまとめられてしまう作品や作家達がいかに多いかは、少しでもアートをかじった人なら解ると思うが、確かにアートフェアなどで売れる作品の多くは、今でもこの路線のようなのだ。需要と供給のバランスがとれた世界が、ままならないのはよくあることだが、美術市場がこの流れに支えられているのであれば、ポエム系女子アートが増えていくのは仕方なかろう。売れることは確かに重要なのだ。
対して職人への眼差しは暖かい。「アーティストになりたい」はただの願望に聞こえるが、「職人になりたい」という言葉には覚悟が滲む、という部分は頷けた。

アートをやっている人は、戦力外通告を受けない。年齢制限も基本的にはないので、本人がそう思わない限り続けられる、引き際がない世界なのだ。やめることは裏切り者的な風潮もある。アート以外にそういうプロの世界はあまり見つからない。例えばスポーツの世界は厳しい。カズは痛々しいけれど、所属が許されるなら誰も何も言う資格はない。彼ほど頑張っているという言葉がハマる人もいないだろう。中田よりファンは多いのではなかろうか。
何が言いたいのか。まあ著者はやめることを正当化したかったのだろう。こんな曖昧で不条理な世界はないと。まるで別れた恋人の問題点をあげて「だから私の決意は正しいのだ」と自身に言い聞かせるように。気持ちはわかる。そして本書を読み、決意が揺らぐような人は確かにやめた方がいいとは思う。しかしアートをやる、魔力のような魅力にもっと迫って欲しかったとも思う。著者は確実にその世界を見たはずなのだ。悔やまれる。
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5 Comments
By kammy by toshio kamitani06 11, 2011 - URL [ edit ]

こんばんは
おもしろそうな本ですね
でも 結果あまり役に立つこともなさそうな・・・

大学時代の先生に言われた言葉
「アーティストになりたいなら
私はアーティストです といえば それでいい」

そう 自薦でいいんです

でも多くのアーティストは
アートの世界で認められてから(誰にかわからないけど)
私はアーティストですと 大きな声で言いたいのでしょう

私はアーティストではないし なれないし
言うこともないですけど
アートを目指すことのなんというか
暗闇のなかのおにごっこのような
そんな日本のレギュレーションをなんとかすべきではないのでしょうか?
この著者がそこを打開してくれたらなと 
若いアート志向を考えるとそう思いますが・・・

フェイスブックをやってて
相変わらず日本人って 世界にオープンになってるにも関わらず
ガラパゴス化していますよ
まるでパーティ会場でみんなが交流しているなかで 
日本人というテーブルで会話してる
そんな感じです
村上隆さんの海外へのアートデビューの話を思い出しました

By 任田進一06 12, 2011 - URL [ edit ]

その通りで、役には立たないです。
まあそういう買い物をしてしまうこともあります。
フェイスブックは詳しくないのですが、
そんなにガラパゴス化を感じるものなのですか。

By kammy by toshio kamitani06 12, 2011 - URL [ edit ]

でも芸能人アーティスト?について触れているのは
多分読んでて気持ちよさそうですね

その境目が北野武かなと思います
彼は映画で評価されたからアートもってなるのでしょうか?
わからないですけど

フェイスブックについては
元は学生のサークル的なのりで始まったので
べつに日本人のガラパゴス化がだめとは思いませんが
でも なんか違うなと感じます
私には
これは一つに言葉の問題が一番大きいです

はじめフェイスブックは英語で始めた方が多いけど
別に日本語でもよくなった
それで日本語で行われるようになった
とうぜん海外の人は全くそこには入れないんです
まったくわからないから

だから仕方ないんですけどね

フェイスブックがサークルから始まって全世界に広がって
遅まきながら日本人も参加するようになった
日本はもっとも遅く参加してるのに
フェイスブックのはじめの状態が一番心地よいんですね
だからまったく世界的にみたら逆行していると思います

なかなかに興味深いツールですよ

By 任田進一06 13, 2011 - URL [ edit ]

なるほど。言葉の問題でしたか。

フェイスブックとは関係ないですけれど、
うわさですが、ブログで使われている言語は、
世界的に見て日本語が一番多いそうです。
日本人はこもりつつ広がることに
快感を覚える民族なのかもしれませんね。
英語ができない理由は、様々あるのでしょうけれど、
僕が思うに普段使うシーンが全くないこと、
周囲からも全く聞こえてこないことが、大きいように思います。
どこか自分から遠いモノに感じてしまうのです。

フェイスブックがどういうものかわかっていませんが、
そこでは英語しか使えないという状況の方が、
日本人にとってはよかったのかもしれませんね。
なんて思ったりしました。


By kammy by kamitani toshio06 13, 2011 - URLedit ]

なるほど

ひょっとしてブログなるものを今も個人で行っている国民は
日本人が一番多いのかもしれませんね(任田さんも私もそのうちの一人ですが)
ツイッターがでて コミュニケーションが楽になったのかも
だから面倒(とは私は思わないですが)なブログより
ツイッターに以降したのでは
今のフェイスブックもまあツイッター的な要素も多いですからね
つまりフェイスブックはツイッター的でありブログ的であり
ホームページ的でもあるということです

私はブログを始めるにあたりある人に相談したのですが
彼いわく 
大事にコンテンツをコツコツと作り上げるのがブログで
ツイッターとは全く別だと
私はブログを勧められました
そして彼いわく
「コンテンツホルダー」がこれから大切だといいました
つまり発信する方か? 受信するほうか?
私はすかさず発信する方になりたいと思いました

おっしゃるようにフェイスブックは
英語オンリーくらいでも良かった気がしますね
でもそうならば多くの日本人は不参加だと思います

言葉って難しいなと思います
いろいろな意味で・・・

長くなって失礼しました(しかもまとまってもいなくて)

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