キーファー

05 03, 2011
明るくハッピーな作品より、重く深刻な作品に惹かれる傾向が僕にはある。それは視覚的な問題としても重要で、例えばショッキングピンクを使った深淵な作品もあるだろうが、僕としてはそういう軽い装いではなく、できれば徹底的に暗くのみ込まれるような色なり形態を伴った作品こそが、芸術のあるべき姿だと、なぜか大学生の頃は思っていて、そんな感覚に、どストライクで迫ってきたのがキーファーだった。その重さ、その暗さ、その退廃的な空気は、曖昧な妄想として漂っていたものが、予想を遥かに越える緊張感で結実している感じだった。1993年に開催された、今はなきセゾン美術館と佐賀町エキジビット・スペースでの展示は、今でも僕の中で最高のプレゼンテーションのひとつだ。彼の作品が孕むユダヤ神秘思想やナチの戦争計画、神学と聖書の歴史や錬金術等々、まるで理解できていなかったが、それでも当時の記憶は今でも鮮明で、その視界を覆わんばかりの巨大な作品群は、今までの僕の価値観をぶちこわすのに充分すぎる強度を持っていた。もっと注意深く、その作品に貼り付いている様々な象徴的物質の意味を理解すべきだったのだが、僕はその砂と灰にまみれた洋服なり、風化しまくった鉛の飛行機を観ているだけでもう充分であり、しばらくは偽キーファー的な作品しか作れなくなった。模写とかが意味のある作品もあるが、あんまりキーファーをマネても意味がないことに当時は気づかず、一途に鉛を腐食させては喜んでいた。鉛の本が詰まった本棚に、割れたガラスが飛び散る作品「器の破壊」とか「高位の尼僧」には心底しびれた。しかし、そこに登場した鉛の本の意味を「知識のアレゴリーではなく、精神と物質が遭遇して、独自の芸術的思考を問う過程(多木浩二・灰と鉛のフーガ)より」と解釈できたところでどうなのかとは思う。
時々、制作に行き詰まると過去を振り返る。その儀式みたいなものが、キーファー展のカタログを見直すことだったりする。そして過去の自分が受けた衝撃を復習する。何が見えるわけでもないが、少なくとも止まっていた手を再び動かそう、という起爆剤にはなるのだった。
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