ルター

03 20, 2011
文学は終わった。ということを様々な人が言っているらしいが、同じ現象は美術でも起きていて、全てはやり尽くされたという話は、いたるところで耳にする。しかしそんなことはない。

「切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」佐々木中(河出書房新社)
著者の言う、本を読むという概念は容赦がない。しかしそれは実に新鮮で驚くと同時に、安易に本と接してきた自分を戒める。著者は本を読むとはどういうことか、文章を書くとはどういうことかを過去にさかのぼり検証し、その実態を露にする。特に宗教改革を起こしたルターが、いかに本を読んだかを読者に訴える部分は熱い。彼は、平然と行われる教皇位の世襲化や聖職者の堕落に違和感を覚え、それは違うと発起する。そのきっかけは、本を読んでしまったこと、つまり聖書の記述と現状との差異に彼が気づいたことにある、と著者は言う。そしてその後ルターの書いた本が、文盲率の高い当時の世間で広まった事実が、いかに奇跡的だったかを論証するくだりは感動的である。16世紀初頭のドイツでの書籍刊行点数が40点であったこと、ルターの登場でその数字が498点に激増したこと。しかもその内の418点はルターとその敵対者が書いたことを、もちろん僕は知らなかった。
19世紀というのは文学の黄金時代と呼ばれているらしい。しかし当時の小説家達が、いかに破滅的な状況で本を書いていたかにも著者は言及する。文盲率90%のロシアで「罪と罰」を書いていたドストエフスキー、似たような状況下にトルストイ、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、他国にはディケンズやボードレールがいたようだ。ニーチェの「ツァラトゥストラ」の最終部は出版社に見捨てられ、自費出版で40部刷り知人に贈った7部しか出回らなかった。
小説を書くとはどういうことか、誰も理解してくれないことが自明な状況でなぜ彼らは本が書けたのか、それは彼らが「本を読んでしまった」から、ということなのだろう。そしてそこで何かを受け取ってしまったからなのだろう。同じ事が美術にも音楽にも何にでも言えるように思う。それを見てしまったから、聞いてしまったから、味わってしまったから。それらの経験が次へ繋がる発端であることは間違いない。自分の境遇を問題にしている場合ではない。作品から何かを受け取ってしまった人がやることは、ただひとつしかない。

現在の状況が様々取りざたされる中で、こんなことをしていていいのかと自問し、手が止まった人がいるとしたら、この1冊はそれでも手は動かすべきだ、という後押しになるのではないだろうか。
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