自我の膜を曖昧にする

09 25, 2018
簡易的に自我を解放するには銭湯がいいと思う。裸になって湯に浸かっていると、自分がその他大勢の中に混じり、己が湯に溶け出していくような気がする。自分を周りから固めている様々な物、服であったり対人距離であったり部屋であったりを取り去り、裸のまま湯という共有空間に自分を融合させてしまうのだ。実際、揺蕩う湯を通して自分の身体も複雑に屈折しているため、外見の輪郭も定まらなくなる。「気持ちがいい」とは自我で固められた自分を忘れることであるように思う。人間はとにかく徹底的に自分自身であり続けることを求められる。Aさんがある日Bさんになることは許されない。Aさんは基本的に死ぬまでAさんでなければならない。そういう自分を自分から解放すべく、旅行に行く人や登山する人等、様々な技があるわけだが、銭湯はその簡易さとして、最たるものではなかろうか。酒を呑むとか寝るという手法もあるが、通常の意識を保ったままで自我の膜を曖昧にするには、手足が完全に伸ばせる大浴場の湯に身を浸すのがいいと思う。Aという人物が、その時だけはA’ぐらいに緩くなれる。
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現状維持に対する不可能性の顕現

09 14, 2018
ほんの少しの誤動作が決定的なダメージに繋がる時、微妙なバランスの重要さを実感する。当然ながら完璧な安定などない。全ては常に全壊の可能性を孕んでいるし、全壊する時は容赦なく全壊するものだ。しかし、それが終わりなのかといえば、意外にそうではなかったりする。では何なのか。おそらく全壊とは現状維持に対する不可能性の顕現だろう。それ以上続けていても、そのバランスはいつか崩れるというひとつの予兆なのだ。壊れる時は壊れるべくして壊れる、そういうことだ。そして酷なことに、丁寧な日々を大切に積み上げていてもそれは起こる。であれば、全ては無意味なのかといえば、決してそうではない。そうなる可能性を予測しておくこと。時には自ら変化を加えること、そういう意識の保持がバランスの継続に繋がる。そして、たとえ全壊してしまっても、過度に動揺する必要などない。次に何ができるのかを、その場所から少しづつ考えていけばいい。未来はそのためにある。
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個人本心の吐露

09 09, 2018
一般的な常識や正論をかざす人の話しは基本的に面白くない。何故なら、そこには本心がないからだ。そういう一般論は実に上滑りしていく。ある程度の年齢になれば、正しいかどうかは聞く側が判断することであって、間違っても他者から押し付けられるものではない。しかし希に、正しいかどうかの判断を他者に委ねる人がいる。お手本に合わせる方が楽、世間の評価に従う方が楽、そう考える人のことだ。それが悪いとは言わない。ひとつの処世術だとは思う。しかし、僕が聞きたいのは、個人本心の吐露であって、世間の正論ではない。実は正しいかどうかも関係ない。逆に少々間違っていた方が、己で考え直すいい機会になるとすら思う。ファインダーから植物を見る時、少なくとも世間の正論みたいな見方だけは避けたい。写真は特に個人本心の吐露であるべきだと思う。sw2-143b.jpg
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任田進一

Author:任田進一
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