自我の膜を曖昧にする
09 25, 2018
簡易的に自我を解放するには銭湯がいいと思う。裸になって湯に浸かっていると、自分がその他大勢の中に混じり、己が湯に溶け出していくような気がする。自分を周りから固めている様々な物、服であったり対人距離であったり部屋であったりを取り去り、裸のまま湯という共有空間に自分を融合させてしまうのだ。実際、揺蕩う湯を通して自分の身体も複雑に屈折しているため、外見の輪郭も定まらなくなる。「気持ちがいい」とは自我で固められた自分を忘れることであるように思う。人間はとにかく徹底的に自分自身であり続けることを求められる。Aさんがある日Bさんになることは許されない。Aさんは基本的に死ぬまでAさんでなければならない。そういう自分を自分から解放すべく、旅行に行く人や登山する人等、様々な技があるわけだが、銭湯はその簡易さとして、最たるものではなかろうか。酒を呑むとか寝るという手法もあるが、通常の意識を保ったままで自我の膜を曖昧にするには、手足が完全に伸ばせる大浴場の湯に身を浸すのがいいと思う。Aという人物が、その時だけはA’ぐらいに緩くなれる。


